狭間から 3/5
煙草の入っていないジャージのポケットに両手を入れたまま、中里は夜空を見上げた。遠い向こうに星が瞬き、上空に伸びていく空気が胸を突く。
果てしない。
めまいに似たものを感じ、目を閉じて、両のこめかみを右の親指と中指で押さえた。慌てすぎだ、と思う。後悔の嵐が体中を吹き荒れ、思考の支柱となるはずの精神は、大海原をイカダで漂流しているようだった。
早急に必要か否かを携帯電話で確かめることには、電話を受けた涼介の言動と自分の到来との関連性を周囲の人間に憶測されるのではと危惧し、放っておくには、内容の密度の高さと招かれている少年とが気にかかった。考えたところで結論は出ず、迷っている間に体は動いていた。体を労わる服をまとい、洗った髪に整髪料を再びつけ、鏡で顔を確認しても、中里は明確な答えというものを持たなかった。ただ、涼介に不都合が生まれていることを考えると、いてもたってもいられなかったのだ。
焦燥感が腹を焼き、腰の重さも増し、しゃがみ込みそうになったが、中里は意地をもって立ち続けた。大きく一つ、ため息を吐く。県外遠征の人員だけではない、レッドサンズのメンバーもここにはいるようだったが、彼らにこちらをさほど気にしている様子もないことは、目を閉じたままでも、気配で窺い知れた。『ああまたか』程度に思っているのか、まさか『懲りずにコクりに来たか』とでも思っているのか――用件の完遂を焦るあまり、考えたところで答えのでないことを考えてしまい、気分は滅入る一方で、ああクソ帰りてえ、と再びため息を吐くと、
「よお」
突然声をかけられ、「うわッ」、と中里は飛び上がりかけ、「うおッ」、と声をかけた男も飛び上がりかけていた。双方腰を引いた状態で、中里は男を視認し、ああ、あんた、か、と安堵した。「いやどうも、驚かせて」、と外報部長は愛想はあるが、戸惑いもある笑みを浮かべた。
「あああの、この前は、わざわざ電話して悪かったな。うん」
間が生じかけると、焦ったように外報部長は言い、この前、と口にすることより中里は記憶を拾い、ああいや、と再び生じかけた間を即座に埋めた。
「あれはこっちとしても都合が良かった、というかいや良くもねえいや悪くもねえ、いやだから、うん、気にしないでくれ」
「文通してんのか?」
語尾に被せるようにされた問いに、意表を突かれた中里は「は?」と頓狂な声を上げ、いやそりゃ関係ねえか、と外報部長は早口に言い、拳を口に当てて咳払いをすると、「それで」、と改まったように言った。
「今日はその、何だい、あいつに会いに来たのか」
意識が停止しかけたまま中里は、「それも関係ねえだろう」、とそのまま返し、直接的過ぎる自分の言いように冷やりとしたが、謝罪を口にできる間も作らず、まあそうだな、と外報部長は少しばかり注意散漫のように腕を組み、顎を撫でて、狼狽している中里を置き、うん、と一人頷くと、話し出した。
「涼介の奴の考えてるってことは、俺でも分からないことがほとんどでな」
そして何とも動かしがたい沈黙がおりかけ、「あいつの考えを丸々読める奴なんざいないと思うけどよ」、と中里は適切か自信はないが、とにかく補った。「かもな」、と外報部長は緊張を解いたように苦笑した。
「まあ、でも中にはいるのかもしれない。ただ俺は、あいつと十年近く一緒にいるが無理だった。今後も無理だろうな」
納得したようにまた一人うんと頷き、だから、と外報部長は言葉を選びながら続けた。
「何ていうか、あんたがあいつと個人的に何をやってても、俺にはまったく分からねえことでな。好きにしててくれて構わないっていうか」
ぎょっとしたまま、別に何やってるってわけじゃ、と中里が言ったところで、
「あいつ、お膳立て好きだろ?」
「……あ?」
尋ねられ、意味が分からず中里が声を上げると、まあ好きなんだよ、と外報部長は強引に決定付けた。
「セッティングをカッチリ決めて、計画通りに物事運ぶってのが。ってことはどうせ追々何かしてくると思うんだよな、こっちにも。つまり説明、みたいなことをしてくんじゃねえかと。だから俺はまあ、あんまり気にしてねえんだよ。別に今、チームに支障が出てるわけでもないし」
その意図の理解に苦しむ中里を放り、うん、とやはり自分に言い聞かせるように頷くと、そこで外報部長は、ばつが悪そうに中里を見た。
「じゃあまあそういうことで、ゆっくりしてってくれよ。あれ、啓介はあれだ、あいつ今藤原に絡みっぱなしだから」
そして外報部長が視線を移した方向を見ると、確かに特徴的なとさか頭と遠目にも少年と見える二人が、向かい合って立っていた。藤原も大変だな、と中里が思わず呟くと、いや、と外報部長はどこか嬉しそうに言った。
「あいつもあれで案外図太かったりするぜ、啓介と並んでてもあの通り、いつも通りだしな。ん、いや、案外ってんでもねえか、あんなキレた走りすんだから」
「確かに、普通の高校生よりゃ肝が据わってる感じがするな」
だよなあ、世も末だ、と外報部長は大仰に首を振ると、じゃ、と片手を上げ、風のようにひゅいっと去っていった。中里はしばらく呆気に取られていた。まさに風のごときだ。まったく普通にしか見えないが、常にあの男の傍にいるだけのことはある。
その青年と少年二人組みに向かった外報部長から目を地面へと落とすと、中里は重苦しい気分になった。一人であることを意識すると、思考がまとまっていく。
騙している。
それは確かだった。隠すほどのことだろうか、と一瞬魔が差しかけるほどに、罪悪感は強かった。中里は顔を両手で覆った。隠すほどのことだ。生活に波乱を望まないのであれば、一生隠し続けるべきことだった。大体が、俺は誰にも言えねえ、と中里は思う。家族にも友人にも、白状することはできないだろう。何年か経てばあるいは、状況は変わるかもしれない。関係はもっと堅固となり、生活は密着し、そうあることが当然になれば、認められたくもなるだろう。だが、この状態で、何を言える? なぜ、言おうとする? 隠しては、いられないのか?
中里は軽く、頬を両手で叩いた。それにより、疑念は霧散していった。
隠してなど、いられないのだ。分かっている。不審は影となり、影は実体となり、あらゆるものを覆っていく。そうした時、問題点は多いなれど、正々堂々と、誇りを持って相対しなければ、他者は無論、己をも侮辱することになる。この状況だからこそ、言わねばならないのだ。影を払い、白日の下で、おのずから認めるべきだった。そのためにも、軽率な行動は控えるべきだったのだ。中里は両手をポケットに戻し、ため息を吐いて、クソ、と舌打ちした。こんなことは、誰も望んじゃいない。
「どうした」
後ろからした声に、中里はぎくりとし、すぐには振り向けなかった。
二度の呼吸で乱れる心を抑えつけ、ポケットの中の硬い感触を掴み、振り向くと同時に距離を詰めて、顔も見ないうちに、「ほらよ」、と腹にそれを押し付ける。涼介の手が中里の手首に触れ、指先へと肌をなぞるように下りていき、手帳まで辿りつくと、やっぱりお前の部屋だったか、と安心した息を吐いて、それを抜いていった。触れられた右手に残る感触にかゆみを感じつつ、一歩の距離を取り、涼介の安堵の窺える顔を目にすると、喉元までかゆくなってくるようで、「今すぐ必要ってんじゃねえだろうが」、と中里は言い訳をするように言っていた。涼介は意外そうに眉を上げ、いや、と、柔らかく笑んだ。
「今すぐ必要だった。連絡を入れようかと思ってたところだ。ありがとう、助かったよ」
「なら良い、じゃあな」
そわそわしてたまらなく、中里はそれ以上涼介の顔を見られずに、踵を返そうとしたところ、「待てよ」、とすぐさましっかりとした声で呼び止められ、待ってしまっていた。
「話がしたい」
「今すぐか」
「紹介したい奴もいる」
半分背を向けたまま、中里は思い切り涼介へと首をねじり、「はあ?」と思い切り声を上げていた。紹介だと?
「何だ、そりゃ」
「罪滅ぼしだ。欲望の根は深い」、言うと涼介はすたすたと歩き出し、中里はついていくかこのまま帰るか数秒迷ったが、クソ、と舌打ちして、結局その背を追った。
「お前、だから、何だあそりゃ」
「周りのことは気にするなよ、お前はそれほど注目されちゃいねえ。誰も彼もがどっかの誰かさんみてえに、下衆な勘繰りするほど暇じゃねえんだ」
「自己完結してんじゃねえぞり、高橋、お前」
「お前の十八番だったか、それは」
「そういうことじゃねえ、てめえ、おいッ」
すぐ後ろまで来て腕を掴んでその歩みを止めようとしたところ、「こいつが」と言いながら涼介がひらりと半身になったため、中里はその横をすり抜けて、「うおッ」とつんのめった。二歩の消費で踏みとどまったが、最後に踏み出した足の丁度靴一つ分先に、自分のではない足があり、中里は前後に股を開いた状態のまま地面に向いた顔を上げ、視界の半分ほどを占める白いタオルを頭に巻いた男を見て、なぜか咄嗟にバンドマンかこれ、と思ったが、
「スドウだ」
と、涼介は言った。
「スドウキョウイチ、以前群馬に遊びに来てくださったエンペラーのリーダー、自称皇帝殿。お前は知らなかったっけな。じゃないと紹介にならないか」
中里は五秒ほど涼介の言葉を脳に押し込めず、押し込んだものの消化できず、結局それから二秒置いて、「何だって?」とだけ言った。おそらくバンドマンではないスドウキョウイチと言われた男は、冷めた目で涼介を見た。
「誤解を招くような紹介をしゃあしゃあとしてんじゃねえよ、涼介」
「俺の持ちうる限りの愛情を込めた紹介だったんだが」
「無駄なことをする余裕もあるとは何よりだ」
須藤京一、と中里はようやく漢字に変換し、何かを考えるよりも先に、「嘘だろ」、と呟いていた。「本当だ」、と涼介はしれっと事実を提示して、「後で話したい、待っててくれ」と言うと、背中を向けようとした。「うおいッ」と中里は変な声を出し、今度こそ涼介の腕を掴んだ。
「ちょちょちょ、ちょっと待て」
「待てない」
「じゃねえよお前これは、説明が足りんだろうが!」
「時間がかかるかもしれない。その間、こいつを好きに罵倒してていいぞ。つまらねえことを言いでもしたら俺に知らせろ、しかるべき時にしかるべき処置をする」
「それは楽しみだな」、とは須藤が言った。「だろう」、と涼介は笑わずに言い、前腕の半ばを掴んだ中里の手を、物理的な障害も感じさせずにするりと取って、その流れのままするりと背を向けた。早業だった。中里は最後まで力を込められずに終わった右手を腹の辺りに上げたまま、涼介が去っていくのをただ見ていた。
――嘘だろ?
何だ、と思いながら、中里は目を閉じた。何で俺が、あいつから、須藤京一を紹介されるんだ?
目を開き、頭を上げ、瞬く星の広がる夜空で目を埋めて、これが現実だ、と中里は思った。そしてそのまま後ろを向いた。目の前には男が立っていた。機能性の高そうなジャケットを着、生地が多すぎも少なすぎもしないズボン、硬そうな靴を履いた、いかつい顔の、頭に白いタオルを巻いた男だった。
目が合い、そうだこれが現実だちげえねえチクショウ、と中里は苦々しく思いつつ、焦るままに口を開いた。
「どうも」
「どうも」
須藤京一の愛想は良くもなく、かといって悪くもなく、巧妙に遠慮と親しみを削り取った中庸さを保っているようだった。しかしその目は猛禽類を思わせるほどに鋭く、冷厳だった。中里は捕食され得るかのような空気に取り込まれぬうちに、ともかく己の存在を主張するべく、「俺は、中里だ」とそのまま名乗り、チーム名や経歴を続けようとしたが、「知っている」、と腕を組んだ須藤はそれをさえぎるように言った。
「あいつから、話は聞いた」
何の話だ、と中里は背筋が凍る思いになった。須藤は中里を興味なさげに見ると、腕を組んだままどこか遠くを見、
「ここでGT-Rは、走りづらいだろう」
突然言った。そういう意味なのか、と疑いは消えなかったが、中里は『話』についてはその方向に放ることにし、思考を走り屋としてのそれに切り換えて、滑らかに答えを返した。
「もう慣れちまったからな。今他の車に乗る方が、走りづれえだろうよ」
「なぜあの車を選んだんだ」
更に問い、須藤はそこで顔を向けてきた。無駄のない問いと、無駄のない目だった。過去、シルビアに乗っていた頃から今までが、走馬灯のように頭を駆け巡り、それを思考は統括しようとしていたが、須藤の無駄な装飾のない顔に真っ直ぐ見据えられると、正直さがしぼり取られ、口が勝手に動いていた。
「好きになったからだよ」
須藤の細い眉毛が目に見えるほどに上がり、元の位置に戻り、その厚みのある唇が、なるほど、と動くのを見てから、ん? と中里は首を傾げた。まったくその通り、選んだ理由は仕様を知り歴史を調べ実物を見て、惚れたからだが、きっかけとしてはあの車にまず負けたという事実、そして最速を手にしたいという欲求が前提としてあり、今のじゃガキの感想文じゃねえか、と中里が顎に手を当てていると、
「あいつが言ってたが、以前うちの清次に負けたそうだな」
最早先の問いには何の未練もないように須藤は言い、話の変わりように中里は勢い良く須藤を向いて、変な声を上げかけたが、喉の前で無理矢理押さえ込み、ああ、と絞った声で肯定した。須藤はそんな中里の滞りを気にした風もなく、自然に続けた。
「バトルがしたけりゃ言ってくれ、セッティングはいつでもできる」
「――バトルぅ?」
今度こそ中里は変な声を上げた。須藤はわずかに表情を動かしたが、それは特段何の感情が反映されたようでもなく、「する気がねえならいいけどな」、とやはり自然に続けるのみだった。
「どうせもうすぐ冬だ、環境も悪い」
「いやそうじゃねえ、確かに俺は……」
言葉が止まると、その先を促すように須藤が見てきたが、最後まで言えず、いや、と中里は俯き、唇の内側を噛んだ。バトル、バトルだと? 噛むほどに、痛みが鮮明になるほどに、腹の奥で長々とくすぶっていた火種が、炎を生んで、熱を全身に広めていくようだった。あの野郎、何が罪滅ぼしだって? こんなこと、俺は望んじゃいねえ。中里は拳を作って握り締め、一発デコピンだ、と心に決めて、ひとまずは須藤に対し、途切れた言葉を補った。
「ありがとう、やる気はある。ただ、しばらく……考えさせてもらえねえか」
「俺に許可を取る必要はねえよ、そりゃお前のことだ。俺は知らねえ。ただやるなら話は通してもらった方が良いからな。こっちにも都合がある」
「ああ、分かってる、話は通す、大丈夫だ、それは十分……」
傲慢さにも似るほどに、偏見のない公平な須藤の態度に接するにつけ、それをなせるのになさぬ男に対するようやく生まれた中里の怒りは明確になっていき、声を途中で奪ったが、須藤は必要な答えは確保したようで、それ以上何を促すことも、何を問うこともなかった。あの野郎、と中里は口に手を当てながら思った。その声が耳によみがえるだけで、ぞくりとするが、同時に、溜まっていた鬱憤がはしゃぎ回ろうともした。
『走ってりゃあいいんだよ』
人をこき下ろしておいて、そう言って、そしてこのお膳立てか? 全部、計画だってのか。まさか、と中里はただち心中で否定した。いくらあの男でも、あの安堵の表情も声も演じられるわけがない。その行動に至るまでの過程を推測することも、理解することも中里にはできなかったが、ただ、あの男が加減のないコーヒーのように甘い人間だということだけは、理解したくなくとも理解することができた。
だから中里は、自分に欠けている理論の一端でも手に入らぬものかと、「あんた」、と須藤に聞いた。
「あいつの、高橋涼介のことは、良く知ってるのか」
「俺は車に関する以外のあいつのことは知らねえよ」
そうして中里の希望は造作もなく打ち砕かれたわけだが、中里はその失望よりも、須藤の細められたつり上がり気味の目や今の口調に、これまでで初めて、感情と呼んで相応しいものが浮かんだことに、心を奪われた。
とかく、嫌そうだった。
そういえば、渦中では混乱のあまり注意も払えなかったが、今振り返るに、涼介と話していた時もこの須藤京一は、嫌悪という片鱗を覗かせていたようにも思える。これまでの理性的な対応から見ると、それはとても奇異なものに中里には感じられたが、そんな理性を大盤振る舞いする男が、あの天上天下唯我独尊男を好きであっても、それはそれで奇怪に感じられそうで、ってことは逆もそうなのか、と中里は思った。
嫌そうな顔のままため息を吐いた須藤が、無表情という表情を作るのを見たまま、いやでも嫌がらせはされてたよな、と中里が思っていると、須藤は改まったように中里を向いた。
「お前はあいつのどこがいいんだ」
あいつが嫌がらせするのは面白いと思ってる奴だろ、と続けて思っていた中里は、突然の問いの意味を理解しかね、「何?」と顔をしかめた。須藤は中空を見、そこに含まれる酸素の量を目で計測しているような間を置いて、あいつに話は聞いた、と再び嫌そうに言った。走り屋方向へと放っていた『話』は、ブーメランのごとく舞い戻ってきた。中里は全貌を悟り、思わず額を手で押さえ、デコピン二発にしてやると心に誓い、すまん、と須藤に謝った。
「あいつの言ったことは気にしないでくれ、あの野郎、判断基準がおかしいんだ。クソ、何だってんだ」
「そりゃ知ってるよ」
罪悪感と焦燥感と不快感でぐちゃぐちゃになっている心持の中、そうしてうんざりとため息を吐く須藤を見て、ああそうか、と中里は直感した。
こいつは俺よりあいつのことを、知っている。
おそらく、理解しているのだ。涼介の、底抜けの冷たさ、情熱、甘さ、優しさ、すべての量もその不均衡さをも、この男は理解している。須藤京一――エンペラーのリーダー、三菱ランサーエボリューション3を駆り、赤城山で涼介を苦しめた男、だからこそこの男は涼介を嫌っており、また完全に憎みきれず、涼介に関しては知らないと言い、深い意味での交際を結んでしまっている中里に、その『良さ』を尋ねるのだろう。
近付きもしたくはないが、離れられもしない。
その何かが強制的に作り出しているであろう距離が、中里には羨ましく思え、「あいつのどこが、いいかって?」、と受けた問いを確認していた。ああ、と須藤はただ頷く。その顔は興味も見せず、無関心も見せず、中里はいよいよ落ち着かなくなってきた。涼介の場合、表情、言葉、声、口調、態度や動きというものは、一定性を持たず、それによって他者をかく乱し自分の存在を確立するものだが、この男の場合、他者の目をくらませて進行することはなく、ただ自分のある基準に沿った行動を取るのみで自己を保っているようで、その単純な頑強さは、涼介の雑多さに慣れている中里には、いやに胸に直接刺さってくるものだった。須藤から目を逸らし、近くの地面を睨みながら、何が良いか、と、性急に考える。
自分にとって、あの男は、何が良いのか。
良い男だ、と思った記憶はある。ただ、あの男で心底良かった、と思った記憶は、いくら漁っても見つからなかった。中里は、んなわけねえだろ、と焦り、目を閉じた。何か良くなければ、こんなことにはなっていないはずだ。何が良いのか、顔か、顔は確かに良いが別にそれが特段というわけではないし、体か、いやバランスはあるがあの体はいささか肉が薄すぎる、声、声は良いがそういった意味での良いではない、性格か、それは絶対違う。頭? それも良いが、基準にはならない。環境? いや、あの男の周囲には進んで近付きたいとも思わない。運転技術? それも良いだろう、しかし選ぶ理由にはなるだろうか。問題は、この関係の説明になるほどの、あの男のいいところだ。考えるうちに、そんなもんあるのか、と中里は疑っていき、ともかく今までの高橋涼介という男を思い出すことにした。人に向かって藤原拓海には勝てやしないと断言したあの男、交流戦を手際良く整えたあの男、写真を撮ったあの男、自己の発展云々と言っていたあの男、喋りすぎだったあの男、何もかもを呼吸をするように語るあの男、睡眠不足のあの男、煮詰まったコーヒーを敢えて選んだあの男、走っていればいいと押し付けてきたあの男――。
すべてに共通する事柄が、ああ、と脳裏に浮かび、これだと思って、中里は自信を携え須藤に答えた。
「一生懸命なところ」
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