狭間から 2/5
その言葉の甘美な響きに酔わず現実を表現できる人間ほど、須藤京一の神経を掻き砕くものはないが、運命――自由意志の否定、義務と責任の放逸を前提として、この自死のはびこる不条理に満ちた世界を、あたかも慈愛と幸福に満ちた理想郷のように説くことを楽しむ悪趣味な――少なくとも京一にはその趣向は理解できない――男、それは確かに京一の世界には存在した。その男にかかれば、今、京一が己の血肉にも似た車を常の正確さをもって、たった一つの目的のために動かしていることすら、運命とされるが、その根本の規定とは、決して人生全体を貫く理念よるものではなく、下劣ゆえに純粋な、感情によるのみであり、そういった理性の範囲を飛び越える男の所業こそが、京一の神経を掻き砕くのだった。
京一が初対面にてその男から受けた印象は、インテリという以上でも以下でもない。生気に欠ける容貌はそれでも端整であり清潔で、珍奇な風采はそれでも消し飛ばせない高級感を漂わせ、肉の薄そうなひょろりとした体は動きがたおやかであり、何よりその男が乗る車はロータリーエンジンを搭載していた。金こそが速さの源であると勘違いした盲目的なブランド愛好家と断ずるにも、自身の環境を最大限に利用した絶対的な強者と断ずるにも足る証拠はなかったが、その男の来訪を受けた峠での京一の知人は、彼ら自身の個人的経験から、男を前者として、速さに欠ける格好のカモだと決定したものだった。
その落ち着き払った態度を取る坊ちゃん風情の男に、我こそはと突っかかっていった知人たちと見解を同じくするわけではなかったが、京一は異議を唱えもしなかった。価値とは様々な事態のその原因と結果と過程を知った上で、与えられた個人的、社会的影響を大局的見地から検討し、善悪や損益を除いた形から決定されなければならない。それが二年ほど昔になるその当時からの、京一の信ずるところの人やものの評価の仕方であり、その時もまた、情報なしに他人を判ずることをしないことの、例外などにはならなかった。
そうして力を鼻にかけていた知人たちが皆、尊厳という最も堅く、脆い内臓を手ひどく食いちぎられるさまを目の当たりにし、それをやってのけた、反論の仕様のない美しい理論を流麗に操る一人の走り屋について、その場で可能な限りの分析を冷静に心がけながら、そして京一は、その男に強烈な嫌悪感を抱いている自分に気付き、それを封じ込めようともせず、なるほど、と思ったものだ。
その速さの欠如を敗者の誰一人余さず断罪した、冷徹であり冷酷である高貴を体得している男の意見において、京一が共感を覚えないものはなかったが、他者の人間性を根っから度外視しているかのような振る舞い、自身にある欠陥を認めた上でそれすらも美点と整える態度、それらは京一が理想とする人間、不変的な倫理性と能率的な公平さを兼ね備えた人間とは、正反対の性質を持つものであった。
だからこそ京一は、峠にて運転技術を競い合う前から、その男を忌避する自分に納得したのである。
――きたねえ奴だ。
バトルの折には男は一分の隙もない、その消化され切らぬ吐瀉物を思わせる内面ではなく、まさに端麗な容姿を表したかのような惚れ惚れするような走りを見せた。その内容の充実如何に関わらず京一がうんざりしていると、男は取るに足らないというように目をすがめ、『お前の走りはつまらねえな』と言い放ち、京一自身もまた、その男に存在を否定されたのだった。
――今更。
いつか決着をつけねばなるまいといかなる時でも意識していた関係は、しかし呆気なく終わった。
あの男に引導を渡したのは京一ではなく、走り屋というには朴訥すぎる少年じみたドライバーであり、また京一自身もそのドライバーには敗北を与えられ、その才能の強大さに深く感じ入ったものだった。
そしてあの男は結局、京一に負けぬままに走り屋の一線から退いた。
すべては終わり、忌まわしい記憶も、若かりし頃の思い出となる。
そうだ、と京一はステアリングを握る手の力を緩めながら考える。例え突然こちらの都合も考えられていない連絡を入れられようが、その意図にすっかり乗ってしまっていようが、奴にこだわることは、それこそ今更だ。
だが、どれほど理性を駆使しようと、また時を重ねようと、あの尊厳の殺戮現場から得た印象は一切変わらず、京一にとっての白いRX-7FC3Sを持った高橋涼介という男は、外観を弄ぶ者、弱者を侮蔑する者、自己を愛する者、運命を規定する者――たやすくどうでも良いとは割り切れぬ、きたねえ奴であった。
山の枯れ木を揺らす風は冷気をはらみ、防寒具では覆い切れぬ顔の皮膚を鋭く切りつける。呼気は白く染まり、吸気は喉から水分を奪い取った。
鼻の奥に広がる匂いの透徹さと馴染みのなさを感じ入りながら、京一は時間の流れが漠とし出した場へ躊躇なく足を進め、車での到着時から一つも動くことなくただ京一を見据えてきた男の前に、サファリジャケットの脇ポケットに両手を差し入れたまま立ち止まった。
「よく来たな、京一。歓迎するぜ」
京一がひりつき出した喉を湿らせ言葉を発する前に、笑みの混じらぬもっともらしい顔で、本気とも冗談とも揶揄とも取れないことを言ってのけた高橋涼介に対し、京一はただ一つ、小さく息を吐いた。
その精緻な彫刻のような顔といい、人の耳を侵すような低い声といい、人の気分を害することを目的とした態度といい、夜の峠では突飛な服装といい、まったく変わらない男だ。京一は半ば不快さ、半ば諦めを感じながら、「お前が俺を歓迎してくれるとは思ってもみなかったな」、と正攻法の皮肉を返した。
「俺が呼んだようなものだからな。礼を尽くすのは当然のことだ」
すると涼介は真実申し訳ないように目を伏せた。しわのない純白のジャケットと鮮やかなピンクのシャツ、演劇めいたその顔はそれらの上でよく映えたが、京一の心には謝罪への感動も三文芝居への感心もなく、ただ疑心しか生まれなかった。
この男が『呼んだようなもの』であることを京一は否定するつもりもない。情報の提供は決断の請求に他ならなかった。夕日も沈み家々の窓越しに光が浮かび出した頃、まさに電撃的な電話にてこの男がたらし込むように語ったこととは、あの天才的であるくせに純朴そうなドライバーが赤城山に来る、そしてその青年は京一を気にかけている、来たいなら来い、ということであったが、問題といえば行動を起こせる時間の有無くらいで、京一がそうして行くことをためらうような条件がそこには一つもないということを、涼介は了解していたようであり、京一自身もまた了解し、決定したのである。したがって、己のチームの管理を手早く済ませこの地へはるばる来訪したことも、京一が望むべくして行ったに過ぎず、そもそも京一にとってあらゆる決定は己の意思によって行われなければならず、その京一が己に課している義務を、涼介は知っているはずだった。過去、涼介は京一に対し、『お前の独善には吐き気がする』とも言ったものだ。独善とはすなわち京一の信念であり、涼介はそれを知った上で、嫌悪を露わにしたのだった。
つまり、京一がすべて自身に責任をもってここへと来たことを知っている、そして京一に対し好意を示すことは永遠にないと断言できるこの男が、殊勝顔を装うのは直接的ではなく、裏があってしかるべきであった。
京一は分かりやすくなるように眉を動かし、表情を崩さない目の前の男を見、涼介、と無駄な返答を必要としない言葉をかけた。
「俺に何か要求したいことがあるなら、早めに言っておけよ。今なら聞く耳も持つ」
「へえ、寛大だな。意外だよ。お前には俺に対する親切心というものはかけらもないと思っていたが」
「礼儀を知っている人間にならば、俺はいくらでも親切にするさ」
「誰にでも?」
「誰にでも」
「お前、俺のことを特別扱いしてはくれないのか?」
京一はぎょっとして、つい涼介の顔をまじまじと見た。男くさいが色気も窺える美しいと呼んで差し支えはないその顔も、京一にとっては虫唾が走るのみのものであったが、見ずにはいられなかった。特別扱い、すなわち礼儀正しい人間にすべてもたらされる京一の親切を、その言いようでは拒絶しているようにも取れるが、いくら京一が睨むように見たところで引っ込まない演技めいた表情は、特別な存在としての認知を望むように粉飾されており、この男の真意を知らぬ者ならば、京一に対し何らかの情を抱いているとも受け取られる発言となっていた。
そのような甘い仕業、今までの関係においては初めてである。
胸にムカデがうがめくような不快感がのぼり、なるほど俺はこいつに好かれた場合こんなに嫌になるわけか、と新たな事実を発見しつつ、京一は今までにない手法を用いて迫ってきた涼介に対し、踏み込むべき余地を計った。
「して欲しいのか?」
「いつも通りに」
まったく表情を変えることのない涼介をますます見、演技に付き合うことはせず、お前、変わったな、と京一は簡潔な感想を述べた。涼介は一律することに飽きたように顔面をゆがめ、人間の本質なんざ、と言葉遣いをもゆがめた。
「そう簡単には変わらねえよ。余裕が出ただけだ。お前をからかうことを楽しめるくらいに」
「なるほど、悪趣味なのは変わっていないようだ」
「俺とお前の美的感覚の差異というものも、変わっちゃいないようだな」
「それを言うなら道徳観念の違いだろう」
他者を揶揄する快さを取るか、秩序を保つ価値体系を取るかである。京一がそう指摘すると、涼介はくだらないとでも言いたげに鼻で笑った。
「京一、俺もお前も人としての道を違えたことは一度もない。違うか?」
「否定材料はねえな」
「なら答えは自明だ。藤原は今、公算を学んでるところでな。終わったらあいつから声をかけてくるだろう。楽しんでくれ」
それまでの神妙さをあっさり捨て去り無遠慮に言い切る涼介に、京一は既に辟易していたが、勝手をされ通しというのも癪であり、
「お前、何のためにそれをする?」
「何のためだと?」
問うと、涼介は即座に京一の意図を窺うように聞き返した。京一は些細であることを知らしめるように、大ぶりの肩をすくめた。
「お前の計算式であいつの素養を高めようとするなら、俺が口を出すのはまずいんじゃねえか」
あるいは京一は求められていない親切を費やしたともいえるだろう。それを認めたためか、顔も動きもぞんざいとしていたが、涼介の口調はことさら柔和だった。
「俺は別に、機械を求めちゃいねえよ」
涼介は横顔を見せた。その適当な表情は、この場に適切なようにも京一には思えた。藤原拓海、あの少年の持つ資質からすれば、それこそ機械のごとく正確に成長していくことは明白だ。ただ、技術を除けば、魂を持つ一人の人間である――当然のことを涼介は言っているに過ぎない、しかし、どれほど他人へ働きかけをしようとも、所詮自己本位性の塊でしかないと思われたこの男が、他人の精神の自由をこうも認めているとは、京一にとってははなはだ意外な事柄であり、ため息とともに、つい同じ感想を繰り返していた。
「変わったとしか言いようがないな、お前」
「人間として成長してるんだ。子供は大人へと成長し、そして死ぬ。人生のプロセスの途中まで、ようやく来たわけだな」
「めでたいことだ」
「まったくだ」
横を向いたまま頷く涼介を見、京一は再びため息を吐いた。扱いづらさだけが変わらず、むしろ増しているように感じられるのは、嫌がらせの一環なのかもしれないが、ともかく一つの意趣返しは終えた。京一はそれ以上何を言うつもりもなく、涼介が立ち去っていくことを待つのみであったが、そこで一人の男が歩み寄ってきたため、涼介は京一から離れることなく男と対した。
「涼介、ちょっといいか」
何とも平凡な印象を持った男は軽く手を上げ涼介に近づき、そして京一へと顔を向け、あ、どうも、と軽く頭を下げた。眉毛にかからない下りた黒髪はやはり平凡に頭を覆っており、柔らかいとも硬いとも表現のできない顔をしているこの男は、エンペラーとレッドサンズのバトルの際には細かい折り合いをつけていた。どうも、と京一も頷くように頭を下げると、涼介が「何だ」と男を促した。ああ、と男は思い出したように京一から涼介へと目を移した。
「お前この前何か言ってただろ、FDの荷重がどったらこったら。啓介がそれでうるさくてな」
「あああれか、ちょっと待て」
そう言った涼介は右手を胸の前に上げ、動きを止めた。『どったらこったら』で話が通じるというのは、深い付き合いなのかもしれない。京一が時間を持て余してそう思っていると、涼介は目をつむり、上げた右手の人差し指を立て、そして目を開いた。対する男は窺うように首を傾げた。
「どうした?」
「悪い史浩、その件については後日伝える。今は二つの状況対応について言っておいてくれ」
「ああ、まあいいが、大丈夫か?」
「問題ない」
涼介は上げた右手の掌を上にし、肩をすくめて唇の端を上げた。男は地顔のような笑みを浮かべ、分かったよ、じゃあ、と京一への挨拶も忘れずに、来た道を戻っていった。去っていくその男の背と、その男が行く先にある黄色と白黒ツートンの二台の車を眺めている涼介を、京一は眺めた。しばらくしたのち涼介が自然に見返してき、一定時間互いに見合ってから、「何だ?」と涼介が極めて不思議なように言ったので、「いや?」と京一は極めて何でもないように返した。
ふむ、と涼介は顎に細く骨ばった指を当て、深長そうにわずかに切れ長の目を細めた。
「疑問がありそうな顔だな」
「問題がありそうな顔だからな」
京一が真正面から言うと、涼介は顎に当てていた右手を腰へと回し、しれっと言った。
「お前も大概暇だな、京一」
「どうしてそうなる」
「無駄な勘繰りができるのは、余裕のある奴だけだ」
否定はしねえよ、と京一が言うも、そのためではないように涼介は舌打ちし、クソ、と下卑た言葉を漏らした。京一がそんな涼介を見て物珍しさを感じたのは、それが明らかにこの男の素による態度に窺えたためである。この男はいかなる時でも京一には高尚さ以外は見せ付けず、仮に俗に振る舞おうとも所詮気取りに過ぎなかった。しかし今、涼介の腹の底から生まれたと思われる醜い苛立ちは露わになっており、かといって京一は無視されているわけではなく、涼介は京一の存在を認めながらも、京一がどう見るかということを意識していないだけのようだった。
特別扱い、という言葉が脳裏に浮かび、何のことはない、と京一は理解した。
この男は既に、こだわりを捨てているのだ。
胸がすいたのち、空虚さと疑念がわいて、京一は涼介に目を置いたまま考えた。余裕が出ただけとこの男は言ったわけだが、それは藤原拓海に負けたからでも、自分に勝ち逃げしたからでもあるまい。ならば、もっと先に自分は予兆を感じているはずだった。
京一にとって高橋涼介という人間は、敵わなかった走り屋というだけである。しかしそれだけであるがゆえに、深く禍根を残す存在であった。今更といえど、永久の敗北を悔やまぬ時はない。そのための嫉妬と、また生理的な嫌悪感をもって京一は常に涼介を見ており、そのため些細な事柄でも変化を感じ取る自信はあった。その変化とは、不快性の強弱につながるからだ。
そして、以前どのような場合でも京一はその変化を感じず、今、不快感は安定しない。
確かにこの男は、変わっている。京一への態度には遊戯性が強まっており、それゆえ京一はこの男の寛容性について知りもした。
であれば、一体何によって、いつ、変わったのだろうか?
所詮、敵わなかった走り屋というだけであり、今更でもあった。しかし、地面を睨みながら何事かを考えている様子の涼介を見るに、京一は下劣ゆえに純粋な好奇心を捨て去れない、己の俗悪さを感じ取り、またそれを認めるしかなかった。
そのうち、涼介は頭を上げ、ある一点へと目を向けた。
その方向を見るでもなく見、何もないことを確かめたのち、京一はふと、遠く響く音に気付いた。技術者の粋を集めて構成された精密機械が稼動している音だった。特徴的な地面を掃くような、大規模なピストン運動を思わせる排気音だ。
それ自体に京一は特別な関心も覚えなかったが、再び見た涼介の、その佇まいは己の世界への没入を思わせた。意識を集中し、一点を見据え、そして耳を澄ましている。すなわち遠く響くその音は涼介に何らかの神経的作用を与えているのだと推測され、京一はそのために数十秒の時間を過ぎて現れた車に注目した。京一の愛車と同色の、没個性的であるがゆえに独自性を獲得している形状を持った、日産スカイライン、GT-Rという規格は、どれほど高性能であろうとも、峠道ではその性質上、重量からして適確ではないと京一には感じられるものだった。
その値が張る代物を敢えて選んでいるということは、愚者であろうとも賢者であろうとも、他者を侵食する意図があるのだろうと思われた。しかし運転席のドアは人間の統一されない動作によって、重く鈍く開閉され、それをなした運転手たる男の風体は、動きと同様の自然さゆえの不恰好さに満ちており、生地の余った黒いジャージ、髪は半端に後ろに撫でつけられ、顔自体はさほど悪くもないようだったが、全体として貧弱な雰囲気が漂っていることは否めず、京一がその時点で、その出で立ちの男と男の乗ってきた車との間に、走り屋としての明確な関連性を見ることはなかった。
その中身と裏腹な控え目さをもって到来した車とその持ち主は、多少の視線を集めたようだったが、この場の流れ作業の停止は長くは続かなかった。興ざめをした、という表現が相応しいような簡単さで、元々この地に集まっていた者たちは各々の世界に戻ったのだ。だがそこには冷淡さではなく、あたかも周知の事実を認める、一つの共有された納得があるようで、にわかに京一は自分が男に着目したことが場違いであるように感じた。
「おい、高橋」
ぎくしゃくと歩きながら、男はぎくしゃくと言い、よお、と涼介が応対したところで、その眼前に立ち止まると、よお、と返して、ちょっと話が、と言葉を濁した。
「急ぐ用事か」
「いや急ぐというか急がないというか急がざるを得ねえというか」
代わり映えのしない顔と声で尋ねた涼介に、男は矛盾したことを焦ったように言った。涼介は焦りもせず、「ならすぐ行くからそこで待っててくれ」、と勧め、あ、ああ、と男は来た当初から一切消えぬぎこちなさを抱えたまま、場から去った。
あの男が涼介と対等の口を利いていたことに、京一が妙な違和感を得ていると、「あいつ何だよ」、と持ちかけていた疑問が後ろから現実の他者の声にて表わされた。振り向くと、パーカーとジーンズの下からでも強いバネを感じさせる体のある、鋭く整った男が立っていた。存在感の塊のようだというのに、気配を感じさせずにいつの間にかそこにいた高橋啓介に、さあな、と涼介は無責任に言った。
「まあ大したことじゃねえだろ。お前は気にするな」
「そうか、じゃねえやアニキ、腹減らねえ? パシりてえって奴いんだけど」
「俺はいい。こいつのおかげで胸がいっぱいでな」
あっそ、と同じような無責任さで軽く頷いた高橋啓介が、『こいつ』として示された京一を見、無視するのも面倒だというように、ども、と軽く頭を下げてきた。社交辞令として、お元気そうだな、と京一は言っておいた。高橋啓介は『アニキ』と京一をパパッと見比べてから、「あー」、と億劫そうに口を開いた。
「まあ普通だな。っつーか何であんたがここにいるんだ」
焦らしもせずに「こいつに呼ばれた」と京一が涼介を顎で示すと、「呼んだのアニキ?」と弟は驚いたように兄を見て、兄は無駄なく「呼んだ」と答え、「はあ、そう」、と弟は何とも気の抜けた風に首を傾げた。
「……まあ、そりゃいいけどよ。で、何でナカザトまで来るわけだ?」
「それは俺の預かり知らないところだな。それより藤原が宙ぶらりんになってるぞ」
弟のやって来た方向に、星の溢れる空を見上げ一人ぽつねんと立っている少年がいる。あ、いけね、と弟は呟き、「アニキ、あいつ何の用事だったか教えろよ、後で」、と釘を刺してから、駆け出していった。
飄々としたその後ろ姿を見届けたのち涼介は一息吐き、じっとしており、揚げ足取りとこれ以上の接触を望まない心から、すぐ行くんじゃねえのか、と京一が言うと、「京一」、と真っ直ぐ前を見たままの涼介が朗々と言った。
「さっきの奴はお前らが群馬に物見遊山に来た際、お前のところの岩城清次に負けている。いずれバトルを組みたいということもあるかもしれない。覚えておいてやってくれ」
数秒置いてから、名前は、と京一は尋ねた。
「ナカザトだ。妙義ナイトキッズ、ナカザトタケシ。里中智と犬養毅の複合体だ」
念のため、速いのか、と更に京一は尋ね、「愚問だな」、と涼介は言い切った。漢字の説明の無意味な複雑さと冗長さとは打って変わった簡明さだった。岩城清次に負けているという事実がそもそもの答えだったのだろうが、京一はその程度の走り屋の姓名を正確に紹介してくる涼介に、釈然としないままため息を吐いた。
「甘くなったもんだな、お前も」
「お褒めいただき嬉しいが、残念ながらこれは同情じゃない。お前の愛するところの公平さをもった優しさでもない」
涼介は変わらず真っ直ぐ前を向いていた。おそらくこの詳細さは習慣的な補足ゆえに過ぎず、涼介がその先を聞かれたがっているわけでもなかろうが、そうと断ずるほどの確信も京一にはなく、認めたところの好奇心は踏み込むことへの煩雑さを圧倒しており、「じゃあ何だ」、と京一は追及するように言っていた。わずかに眉を動かし、困惑に似た表情を浮かべた涼介は、
「俺はあいつが俺以外の奴に中途半端な引け目を持ってるのが、嫌なだけだ」
と、道理を示すように言ったが、それはまるで広義ではなく狭義であり、京一がそこに正当な流れを感じることはなかった。こちらが理解し得ぬところで事実は連結され、周囲にそびえている。京一は露骨に顔をしかめていた。
「お前、それを俺に言ってどうするんだ」
「お前が聞いたんじゃねえか」
「答える必要はねえだろ」
よく見れば、涼介の顔に乗っているのは、困惑などという可愛らしいものではなく、何か一つの圧倒的なものに対する畏怖、諦念、そして喜悦のようであり、「あいつに」、と涼介が余裕を持って口を開く間に、それを知ってしまったからには、自分は最後を聞かなければならないということを、京一は悟った。
「粗暴な振る舞いをしてもらいたくはないからな。京一、お前は繊細さに欠ける」
「そういうことは、自分を振り返ってから言ったらどうだ」
「俺ほど人情の機微を知り尽くした人間はいないと思うぜ」
白々しい言葉が宙に浮き、京一は即刻に内部をえぐり取りたい衝動に駆られ、「それで」、と、しかし婉曲に言った。
「そのお優しい高橋涼介さんは、あの男の保護者か何かを気取ってるわけか」
「お前らしく見当違いの指摘だな。たまに檻の中にでも閉じ込めておきたくなることがあるくらいだ」
ぞわ、と京一の全身余すところなく、鳥肌が立った。細かい虫が体表を覆い、毛穴の一つ一つから潜り込んでくるような、不快感と恐怖が生まれた。そうして引きつりかけた京一の顔を揺らがず見据えたまま、愛は尊いもんだぜ、京一、と涼介は笑わずに言った。無論京一も笑わなかった。ここで笑ってしまえる人間であればよほど気楽に生きられただろうと思えたが、そうして何もかもを流すことの見苦しさをも思うと、胸焼けがするようで、京一は顔を強張らせたままにして、与えられた条件を整理した。涼介はあの男に中途半端な引け目を持たせたくなく、また粗暴な振る舞いを受けさせたくもなく、たまに檻の中に閉じ込めておきたくなり、愛は尊い。
京一は一つの結論をどうしても意識せずにはいられず、「それはお前」、と距離を置いた。
「俺に無駄な勘繰りをさせてえのか?」
「そんな自意識過剰な問いに答えて欲しいのか?」
問いを問いで返すことの卑怯さに睨むと、涼介は不意に作りものめいた表情を消し、安心しろよ、と自然な調子で言った。
「お前相手にはどうにも勃たねえからな」
京一はついに目を閉じ、涼介を見続けることを止め、厳しく寄せた眉根を隠すように手で覆い、間違いない、と思った。
これはあれと、付き合っている。
常にどのような非現実的な事柄でも道理に沿っての解釈を怠らない京一であったが、この時ばかりは解釈するより先に、「何をやっているんだお前は」、と心底からの嘆きに似たため息を吐いた。
「人生を楽しんでいるのさ。俺の限られた、叶えられなかった」
身軽な調子でそれを言った涼介を、目を開いて見てみるも、おどけている様子はなかった。この男は、本気でなそうというのだろう。京一はもう一度ため息を吐き、額に当てていた手をポケットに戻し、予想外に長く続いた会話を打ち切ろうとした。
「足元をすくわれないようにな」
「ご忠言痛み入るよ」
ぬかせ、と京一は言いそうになり、わずかな疑念のために言葉を飲み込んだ。以前ならば涼介の虚言はもっと単純明快であったが、今は好悪を越えた遊びに専念しているためか、正誤の判断の難易度が上がっている。やたらと疲労を感じ、京一は涼介から目を逸らし、そしてその男を見た。こちらに背を向けており、様子は窺えないが、先ほどの『どったらこったら』の男と一緒にいることだけは見て取れた。
ここまできて残るものが疲れのみというのも忌々しく、この際だ、と京一は割り切った。いずれは記憶も風化し、思いも風化する。やった悔い、やらなかった悔いもまた、薄まっていくのだ。京一は別の走り屋の集団に目を移してから、涼介、と言った。
「ああ」
「一つ、聞いていいか」
「二つまで許してやる。今日は特別だ、口が緩い」
自虐のような言葉は取り上げず、なぜだ、と京一は問うた。非常に曖昧だったが、この時点でそれ以上に雄弁である問いを京一は知らなかった。涼介は揶揄することもなく、嫌というほど素直に答えた。
「懐かしいんだよ」
「何が」
「俺が手に入れられなかったものが、あるような気がする」
「藤原じゃ、駄目だったのか」
「三つは欲張りすぎじゃないか」
「俺は好奇心が旺盛なんでな」
「基準の違いだ」
京一の戯れを切り落とすように涼介は言い、右目を閉じて、まぶたを細く骨ばった人差し指と中指で押さえた。京一はその動作の円滑さを見届けながら、基準について考え、この男の遠く向こうから少年が近付いていることに気付き、そして言った。
「代わりか?」
まぶたを押さえた人差し指と中指の先を、開いた両目で気に食わないように眺めると、涼介は「すぐ行くか」、と独り言のように呟いて、京一の存在など初めからなかったもののように、背を向けた。
それが途中で少年と会話する姿を見ながら、
「欲張りめ」
京一は独りごち、その言葉の響きの何とも言えぬ不快さゆえに、一人顔をしかめた。
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