狭間から 4/5
まったく想定していなかった言葉に、京一は驚きを隠せなかった。
一生懸命?
そして、笑いをこらえ切れず、そのまま漏らしていた。高橋涼介とその言葉の似合わなさときたらない。つい、肩までもが揺れた。
それを言った男は、な、何だ、と少し顔を赤らめて、不当そうに言った。
「笑うんじゃねえよ、あんた、人が考えて言ったことを」
「いや、なるほどな、そういう見方もあるか」
俺には考えもつかなかったが、と京一は苦笑したまま続け、一つ息を吐き、歪みかける顔の筋肉に力を入れた。確かにあの男は、何事にも一生懸命だ。手を抜くことがない。そういった観点からあの男を見ることを、自分は忘れていた。「俺だって今考えついたんだ」、と反論にならぬ反論を中里毅はし、それから一つ一つの言葉を自身でかみ締めるように、発音を明瞭にして言った。
「俺はあいつをまあ良い奴だとは思うし、良い男だとも思うが、しかし、実際どこが良いかって言やあ、何を考えても、良いっていうほどのもんでもねえように思えてきて、大体あいつは勝手に話を進めやがるし自己完結ばっかしやがるし、人の考えは先読みして自分のことは誤魔化しまくる、そんな奴の良いところなんて、何でも一生懸命にやるくれえしか、はっきりは言えねえよ」
語調からも選ばれた言葉からも憤りが窺え、散々だな、と京一は思った。仮にも付き合っている相手――それを真面目に取り扱うと寒気がしてくるが――にこうも言われるとは、涼介も形なしだろう。だが同情に値はしない。了解もなしに関係を暴露されたこの男には怒る権利があり、そしておそらく理解者たるであろうこの男を敢えて怒らせるなど、取るにも足らぬ、幼児的な行いだった。
中里は言い終え目をつむり息を吐き、そして不意に気付いたように目を開けて、「あ、いや、悪い」、と決まりが悪そうに言った。
「勝手なことを言っちまった。あんたにこんなこと話したって仕方ねえのに、忘れてくれ」
「そう言われて、忘れられることもねえだろう」
ただ事実を返したのみだったが、「そうだな、悪い」、と中里は再び謝り、ますます困惑したように、表情を飽和させた。だがそこには助勢を求める媚びも計算も見当たらなかった。京一はこの男の単純明快な答えを思い出した。普通、走り屋を自称する男に車を選んだ理由を聞いたならば、過去から現在までの歴史を披露するなり、蹴落とした残りの選択肢を批判するなり、否定を求める卑しさを前面に押し出したりと、まず第一に余計な事柄がついてくるものだが、中里毅は『好きになった』という言葉で済ましかけ、慌てたように余計な事柄を用意しようとしていた。そんな、ひたすらに正直だと思われる男が好きになったという車へと目を向け、ようやく京一は、前に立つジャージ姿のくたびれかけた男がその重厚な車を操ることを、違和感なく受け入れられるようになった。これだからこそ、この男は、涼介に見つかったのだろう。一見するだけでは分からぬ、己の身から外部に出たものすら抱え込もうとする正直さ、その隙の多さと隙のなさは、高橋涼介が付け入りそうなものだった。
京一は難しい顔をし出した中里へ、「冗談だ」、と嘘を言った。それは助け舟でもあった。中里は驚いたように、「あ?」、と大きく目を見開いた。
「あいつをとことん褒め称える話なら遠慮させてもらうがな。適当な欠点を指摘する話は同意するところが多いし、聞き苦しくもねえよ。そもそも俺が聞いたことだ、お前が謝る必要はない」
信じられぬように顔をゆがめ続けている中里を見、「それに」、と京一は言う予定のないことをつい口にしていた。
「あいつも所詮、人間だってことが良く分かったしな」
その装飾に惑わされている者も、それを毛嫌いしている者も、奥深くに潜みほくそ笑むあの男の姿など、知りもしない。それほど完璧に、あの男は高橋涼介を演じている。中里毅もその演技に騙されていないとも限るまい、しかし、この男はそうだとしても、そのことごとくを『自分勝手』だと切り捨て、なおかつ『何でも』『一生懸命』だと表したのだ。批判でもなく賞賛でもなく擁護でもない、暮らしの中の高橋涼介を中里毅は言葉によって形にしていた。そしてそれはすべて京一ですら知っている涼介であり、まったく下劣なほどに、人間であった。中里はゆがめた顔を見られるものにして、京一から顔を逸らし、一点の曇りもない真剣な顔になると、
「誰よりも、あいつはそうなのかもな」
その鋭さからは想像もつかないほどの、柔らかな声で言った。どうしようもないほどの本心がそこにあり、どうしようもないほどのやるせなさが、その中里の全身からにじみ出ているようだった。おそらく、この男は、すべてを理解している。涼介に影響されず、心酔もせず、さりとて否定もせず、ただ認めることの困難、耐えるのみの虚しさ、許すことの愚かさ、越えられないことの悲哀、それらと常に寄り添い進まねばならない現実をも知っている。
つまり中里毅は、すべてを理解していながら、この選択をまっとうしているのだ。
京一は、これ以上にこの男のほどを見極めるために言葉を費やすことをやめた。決して賢者ではないが、己の居場所をわきまえ、貫いている常人にすぎない。そして単なる同性愛者だ。京一はその不条理さを承知しながらも敢えて正確な判断を捨て、遠くを見据えたままの中里へ、声をかけた。
「清次とバトルがしたくなったらいつでも来い。あいつにとってもやり合う相手がいるのはいいことだ」
中里は思い出したように、ああ、と言い、ありがとう、と頷いた。礼なら涼介に言うんだな、と京一は種明かしをした。
「涼介?」
「この俺に直々に頼んできやがった」
嫌そうな声を上げた中里に、京一は誇張が分かるよう、わざと自慢するような色をつけて続けた。
「あいつは俺を存分に嫌ってるからな。俺がお前と普通に話してるのも、はらわたが煮えくり返るようなことのはずだぜ。それを自分で用意した。俺にはとても有意義とは思えねえが、その努力は称えてやってもいいだろう」
一分ほどは敵ながら天晴れという思いもあったが、残りの九割九分は言わずもがなである。顔をひそめ、何でそんなややこしい、と中里は呟き、舌打ちした。計算だろうよ、と京一は呟き返していた。「そう思うか」、と言って眉間にしわを寄せた中里を見、その奥から先ほど最後にこちらを無視した男が近付いてきていることを見て取って、「思うね」、と京一は故意に饒舌になった。
「あいつの目先の器用さに惑わされる奴が多いが、あいつは特殊なものしか愛玩できねえ奴だからな。異常なんだ。そもそも普遍性をはなから捨てた理論を振りかざしているってのがそうだよ。そしてそれを自覚して隠しているが、分かる奴には分かるようにしか隠していない、つまり、分かる奴には見つかりたがっているんだ。露悪趣味だな。そうやって、隠されているようでひけらかされている部分を見つけて近付いてきた人間を取捨選択し、自分が気に入ったものだけを確保して囲う。そんな真似ができるんだから、実際のところ、本来的に誰よりも計算高くてえげつねえのはあいつさ。まあ今回のことに関しちゃどこまでかは知らねえが、少なくとも、何も考えずにやったってことはまずねえだろう」
気圧されたように目をぱちくりさせながらも、なるほど、と中里は深く頷いた。その向こうから歩いてくる男は、距離的に、あと数十秒でここに着くだろう。京一がさてどうするかと考えていると、中里は顔を上げ、よく分かってるんじゃねえか、あんた、と褒めるように言ってきた。あいつのこと。京一は中里に目を戻し、「欠点だけはな」、と一部を否定した。
「俺にとっての理想の人間は、あいつみてえなマゾヒストとは正反対なんだ」
中里毅は噴き出した。京一が訝ると、いや、と咳払いをして中里は言いづらそうに言った。
「その、あんた、そのまんま言うんだな」
ああ、と京一は思い至った。露悪趣味もそうではあるが、自己満足による自己犠牲を基本とした社会全体の幸福を追求する功利主義――特にあの男は前提として利己主義を強調することで自虐性と矛盾を作り出している――は京一の好むものではないため、その特徴が目につくことを言ったまでだが、なるほど、表現が直接的すぎたらしい。久々にその存在に触れたがために、時間の経過とともに感情の抑制が緩くなったのだろう。すぐそこまで迫っている存在を確認してから、悪いな、と京一はため息を吐いた。
「あいつに関することだと、口が張り切っちまう。まあどう言ったところで、俺があいつを好きにならないのは変わりがねえよ。じゃあな」
回れ右をしかけ、「え、帰るのか」、と普通に驚かれたため、京一は一瞬躊躇し、それのみによって洗練さを失ったことを悟り、半身になった体を中里に向き直した。
「藤原とも話したし、お前とも話をした。俺に課された役割はまっとうしたぜ。そうだろう、涼介」
最後は目の前の男から数歩後ろにいる男に向けての言葉だった。中里毅はばっと後ろを向くと、後ろまで来ていた涼介の存在にようやく気付き、声を飲み込んでいた。感受性が豊かなようにも見えなかったが、人の気配にも鈍いようだ。「お前」、と身を横に引いて絞った声を出した中里を、涼介は一瞥するのみで、京一を見据えてき、軽薄な表情を作り、「もう少し」、と残念そうな声音を出した。
「ゆっくりしていけばいいじゃねえか。ここに来るくらいには暇なんだろう?」
「お前、優先順位ってものを知ってるか?」
京一が聞き返すと、涼介は表情を崩さず、まるで全世界の真理もそうであるように、勿論、と頷いた。
「知ってるさ。お前にとっての一番は、俺だということもな」
「なあ、お前と俺との絶大の差異は、認識だと思うぜ。修正も効かないくらいに」
「そうだな、京一、お前にはやはり謙虚さが足りないように俺は思うよ」
「そういうところだな。お前は俺をよほど偏屈な人間に仕立て上げたいらしい」
「お前は謙虚だって?」
「それをそのまま肯定しない程度にはな」
「なるほど、お前が謙虚さに溢れる立派な人間なら」言って涼介は、自然と距離を取ろうとしていたらしき中里の肩に手を置いてその動きを止めると、「こいつに妙なことを吹き込んじゃあいないんだろうな」、と京一へ確認してきた。京一はこちらも一定の表情を保ち、一定の丁寧さを保ったまま、確かめるように言った。
「俺がいつでも事実しか言わないことは、お前は良くご存じじゃなかったかな」
「ああ、お前が自分に都合の良い事実しか言わないことは良く知っているよ」
「俺もお前が自分に都合良く事実を語ることは、良く知っている」
涼介はその心的過程を探るように京一を見ると、言葉は重ねず、その肩に手を当てている中里へと顔と目を向け、「なんて顔をしてるんだお前」、と不思議そうに言った。「あ?」とあからさまにぎくりと動揺した中里は、
「何だ、俺に振るなよ、俺にはお前らの世界は分かんねえぞ」
と、涼介の手を肩から払い、おっかなびっくりと言った。宙に放られた自分の右手をじっと見た涼介は、それから困ったような顔になり、京一を再び見た。
「京一、お前の言い回しはその面の通りにくどいらしいぜ」
「その言い分がどこから出てきたのか俺には分からんが、さっきの話なら俺はお前に合わせただけだ」
「責任転嫁か? ひどい奴だな」
「間違いを正して何が悪い?」
「臨機応変な対応こそが人を救うもんだろう」
「その通り、そして今回はそのケースじゃあなかった。それだけだ」
「お前には繊細さも欠けるようだな」
「お前にこそ謙虚さが欠けるんじゃねえか」
「誤解がお好みだ」
「生憎俺は、お前と違って正常なものを見分けられる目しか持ってないんでな」
「誇大妄想の気もある。一度精神科医に診てもらった方がいいんじゃないか。良い医者を紹介してやるぞ」
「ありがたい申し出だが、それはまず自分に紹介してやれ」
いくらでも続けようはあったが、京一はそこで話を終わらせ、中里を向いた。既に一歩、涼介と京一から間合いを取っており、黙っていたにも関わらず心労の浮いた顔をしている。こんな会話を間でされてはそれは参っただろう。京一は今までで初めて、この男に同情した。
「俺はもう帰る。悪かったな」
言うと、中里は驚いたように目を見開いて、いや、と首を振った。その口から何か言葉が漏れる前に、「俺には謝罪の言葉はないのか?」と、どこか満足げに腕を組んだ涼介が尋ねてきたので、「お前が言ったらな」、と京一は返し、思考を切り換え、「涼介」、とその名を呼び、慎重に見据えた。
「藤原は、良いドライバーだ。お前のやり方でも順当に真価を発揮していくだろう。だが、メンタルのケアは忘れるな。あいつはまだ、十分子供だよ」
その顔には幼さが残り、口調も垢抜けず、思考も高校生の枠から飛び抜けているわけでもなかった。いくら技術が養われていようが、いくら度胸が培われていようが、法律上も成人としては認められない、少年に過ぎないのだ。
涼介は見えないものを見ようとするかのように目を細め、何の表情も作らぬうちに、「分かってるさ」、と砂に水が染みるように言った。
「強い芯はあるが、可塑性も強く残している。そういうことだろう。しかし、まったくあいつは不思議な奴だよ、何もかも吸収していくかと思えば、ちゃんと選び分けているんだな。俺があの年の頃には、あんな頑固さは持てなかった」
涼介の顔は、庇護する者としての責任をまとっていた。教育とは名ばかりの、素養の浪費が行われるのではと危惧したが、杞憂のようだった。涼介のその年の頃に関しては信じないまま、じゃあな、と京一はそのまま背を向けた。涼介は何も言わず、中里もまた何も言わなかった。終わりだ、と思いながら京一は数歩歩いたが、そこで思いつき、嫌がらせのために振り向いた。
「お前、俺が気に食わねえか?」
尋ねると、涼介はわずかに左目を細くし、
「愚問だな」
重要事項を宣言するかのように、言い放った。京一は鼻で笑い、今度は何も言わずに背を向けた。やはり二人の男が何を言ってくることもなかった。そのまま愛車の元へと歩いていく。空気は変わらず澄んでおり、喉は痛み始めた。しかし、悪くはない、と京一は思った。車と無関係なところで優位に立ってみたところで、虚栄心を満たすのみであるが、それもたまには悪くはない。労力はかかったが、藤原拓海の現在位置も知ることができた。無駄ではないだろう。京一は車に乗り込んだ。息を吐くと、揺り動かしがたい様々な感情が肌の下を通り、全身を駆け、そして骨の奥底に沈んでいくようだった。
忘れられはしないだろうが、さして思い出しもしないだろう。記憶は風化し、思いも風化するものだ。それに、俺には関係がない。
ただ、いつかあの男が涼介を捨てでもしたら、散々面白がってやろう、と京一は思い、そして赤城山から去った。
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