狭間から 5/5
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 須藤京一は去った。後には禍根も情も未練も何も、残ってはいなかった。あの男は確かに課された役割をまっとうしたのだろう。余計なものは何一つ、残していない。中里は涼介を見た。『気に食わねえ』ことを肯定した男は、中身を窺えない顔で、須藤の去った後を眺めていた。あれだけ腹を埋め尽くしていた怒りはなりを潜め、代わりに現状ではあまり認めたくはない慣れ親しんだ感情がじわじわと体中へと染み出しており、ただいち早くわだかまりを捨てんとし、「話って何だ」、と中里は苛立ちを隠さぬ口調で言った。
 涼介は怪しむように中里を向き、声を発するまでわざとらしい間を置いた。中里は周囲の音のみが聞こえる時間に耐え、やがて涼介は、表情を穏やかにすると、ささやくように言った。
「楽しそうだったな」
 質問の答えではなかったためでもあるが、予想もしていなかった言葉のために、「あ?」と中里は思い切り顔をしかめると、俺への当てつけか、と涼介は変わらぬ調子で続けた。中里ははっと気付き、「その手があったか」、と呟いていた。そうだ、この男は須藤京一を存分に嫌っているはずだった。考え、いや待てそういう問題じゃねえだろ、と思い直し、そうできりゃあどれだけ良かったか、とは感じながら、「いや」、と咳払いをし、改めて中里は言った。
「お前がそう思いたけりゃ、そう思ってりゃいいだろ。お前の自由だ」
「それじゃあ俺がまるで、嫉妬に囚われた男みたいじゃねえか」
 不満そうに言う涼介をじろりと睨み、ため息を吐いて、いいじゃねえか、と中里は本音を漏らした。
「何やったって、お前は似合うんだからよ」
 対抗心も嫉妬心も、この男の到底見透かすことのできない深奥にたぎっているのであれば、それはこの男の全体像に良く調和するものだ。決して悪いことではない。だが、と中里は思いもする。俺は違う。
「悪かったよ」
 涼介が唐突に言い、中里は驚き顔を上げた。
「今日の俺は、口が滑りやすい」
「謝るなよ」
 自戒を含んだその表情も声も、やましさしかもたらさず、中里は咄嗟にとがめるように、しかし頼むように言っていた。涼介は絞った眉間を広げるだけで、何も言わず、中里をじっと見た。中里は涼介から顔を逸らし、何で俺はこうなんだ、と後悔しながら、それでも誤解だけはされたくないがゆえ、真情を吐露した。
「お前が誰に何言おうが、それはお前の考えだろ。謝るな。お前が何の考えもなく誰にでも色々べらべら喋るなんて、俺だって思っちゃいねえし、それに俺は、お前の考えとかは言ってもらった方が良い。お前が例えば俺をバカだとかアホだとか思ってようが、そりゃお前の勝手だよ。どうでもいい。いや良くねえけど、でもそれを俺が、無理矢理どうにかできるもんでもねえだろ。だってお前の価値観からすりゃ、俺の行動がそういう範囲に入っちまってんだろうから。俺と違うところによ。だからそれはいいんだよ、お前は好きに思やいいし、俺だって好きにお前のことは思ってる」
 そこでようやく中里は涼介を見据え、視線を交わし、「でもな」、と目の周りが硬くなっていく気分に襲われながらも、押し付けがましく言った。
「隠すだけはするな。どんだけそれを言ったっていいんだ、俺だって言わせてもらう、その方が、ストレスも溜まんねえ。けど、何だ、心配してとか気ィ遣ってとかだ、何も言わねえってのはナシだぜ。そんなの、それこそバカにしてるじゃねえか。だから、俺は、お前の考えとかは、知っときてえんだよ。お前のことを知っときてえんだ誰より」
 中里が早口に言い終えると、涼介は各所に小さな痛みを抱えた顔をし、中里は再びそれから目を背けた。見ていられなかった。なじってなどいない、苦言の域にも入らない、言葉だけを取れば、甘言とも呼べるものかもしれない。
 だが、心苦しかった。
 敬愛の保ち方、機嫌の取り方損ない方など、ここまできて涼介が分からぬはずもなく、中里も分かっており、ならば口にする必要もないことのはずだったが、それを声によって認識せねばならぬ状況にまで、互いで引っ張り込んでしまったのは、つなぎ止める役割を肉体のみに担わせすぎていたためかもしれなかった。距離が近くなればなるほどに、確認すべき事柄の範囲がかすんでいき、建前と本音の曖昧さに苛立ち、一つの喪失も耐えがたくなって、そういった精神の消耗を無意識のうちに、避けていたのだろう。だから中里は須藤京一を羨んだのだ。あの涼介との縮みも伸びもしない関係、忌憚せず意思を交し合い、言葉を費やすことのできる世界に触れた時、中里は自分自身の感情に吐き気がしそうだった。どちらへ何を嫉妬しているのか、あるいは二人ともにか、胃がむかむかするばかりで知れず、ただ中里は今、自分もこの男とそういうところにいたかったのだと知った。しかし久しぶりに実感させられた、車への執着、それと同等まで達してきた、この男への執着――それを抱える中里の限界は、そこに留まれぬことであり、またそれこそが最大だった。それこそが、特別であり、そもそもの望みだった。
 これは、すべて俺のためだ。
 そう思ったところで、息苦しさは抜けず、中里は何らかの声と言葉の必要性を感じ、涼介へと目を戻した。涼介は俯き、顔の下半分を右手で覆っていた。「ただ」、と中里がかすれた声を出すと、手を顎へと下ろし、事実を見定める目を向けてきた。中里は唾を飲み込み、喉を湿らせてから言った。
「走りはやめねえよ。今はな」
 涼介は目を細め、平然と、知ってるよ、と言った。
「やめたらお前は、俺の好きなお前じゃなくなるだろ」
 中里がうろたえることがなかったのは、それを想定できたためでも、慣れたためでもなく、おそらく涼介のその動かぬ顔から、さほど余裕を感じることができなかったためだろう。
 何でも知っている男は、それは知らぬようで、意外そうに言った。
「文句、言わねえんだな」
「本気なら、仕方ねえ」
「俺は本気さ。いつでも」
 軽々しさをつけた涼介に、だろうな、と中里は返した。涼介は一拍置いたのち、自嘲的な笑みを浮かべ、改まって中里対した。
「わざわざありがとよ。思いついたことはあれに書き留めてるんだ、特に車のことは。話ってのはそれでな」
 そうか、と中里は頷き、「別に、俺が勝手に来ただけだ」、と素っ気なく言った。
「そんなんじゃねえ。長居しちまった、気にするな、説明はお前に任せるからよ。それでチャラだ。俺はもう帰る」
「悪かった、って言ったらまた怒るか?」
 苦笑いをした涼介が、眉の端を落としながら言ったので、中里もその滑稽さに苦笑しつつ、もう忘れるなよ、と念押しした。気をつける、とかしこまって涼介は言い、それに余計におかしさを感じながらも、中里はこの場で笑うことの不適切さを思い出し、顔に真面目さを繕って、それによって頭が冷めた。今日の擬似的な始まりにもたらされた衝撃が、思考の底に薄く広がっている。そう、こいつはいつでも本気だ。
「俺が」
 心臓が強く脈打ち出し、中里は息を止めるように言った。涼介も笑みを消していた。
「山で走らなくなったら、お前にとっては良いことなのか」
 涼介はふと記憶を探るような、茫洋とした顔をし、それから緩慢にかぶりを振って、他人事のように言った。
「不安要素が少し、減る程度だな」
「何が不安だ」
「お前の身だよ」
 心臓が一瞬、動きを止めたようだった。肌が粟立ち、喉が熱くなった。そんなこと、と中里は言いそうになり、出ていない唾を飲み込んだ。そんなことが、どうした? 俺の身が何だって? そんなこと、才能も金も、関係がない。大体、それを言うならこの男だってたまには走るのだし、外へ出る限り、生命の危機とは常に隣合わせでいるようなものではないか。強い不合理さを中里は感じたが、それを訴えることはせず、そうか、と頷くのみにした。この、臓物の奥で煮えている苛立ちは、決してその筋の飛びようからではない。涼介のせいではない。ただ、新たな場にいる涼介の、何もかもを知りたがっているくせに、見ようとも聞こうともしなかった、走り屋としての立場に固執している自分が、その現実が悔しいだけだ。
「よし」、と中里は言った。怒りも悔しさも苛立ちも悲しみも吹き飛ばすように、声を大きくし、息を吐くとともに言った。
 驚いたようにわずかに空気を乱した涼介を、そして、中里は真っ向から見、
「終わりだ。じゃあな」
 と言って、くるりと背中を見せ、足を進めた。そこで、「中里」、と涼介は呼んだ。足を止め、すぐさま振り向き、「何だ」、と尋ねる。涼介は中里から目を逸らさず、ただ時間を作った。何もかもを包含するような時間が経ち、実際にそこに中里の些細な感情は奪われていったようだった。
「頑張れよ」
 涼介のその言葉のみが、空間から隔絶されており、真剣な顔も声も時間に奪われ、中里はただそれを胸におさめると、てめえもな、と、付随するべきものを削り落とした言葉を返した。それを受け、変化していく涼介の顔も中里は見たが、それが何を意味するかも、この事態の後についても考えず、愛車へと、足を動かした。
 星の瞬く遠い空まで伸び上がっている空気が、胸に染み、目の奥にまで染みた。果てしない。
 今時デコピンもねえ、と思いながら、中里は未練を感じる自分を振りきり、そして本来の領域へと戻るのだった。
(終)

(2006/06/09)
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