ゆめとうつつと 5
妙義ナイトキッズのメンバーにかかれば、高橋啓介の来訪も『暇潰し』の一言で片付けられた。こちらでは『何はともあれ暇だったからとりあえず中里にまつわるウワサの真偽を確かめに来た』、あちらでは『高橋涼介と喧嘩をしてムシャクシャしていたからこのところイイウワサ立ち放題の中里相手にウサ晴らしをしに来た』、そちらでは『とりあえず暇だったからパーペキにノメした中里相手にストレス解消ツアーを組んで来た』、と話は尽きず、しかし皆結局のところ、『暇だった高橋啓介が中里の前を走って帰っていった』という共通認識は持っていた。しからば中里が何も言わずとも良いのである。事実は事実、ウワサはウワサ。そのウワサにしても中里が高橋啓介を破っただの高橋啓介が中里を更に叩きノメしただのではないわけだから、平和なものだ。話のタネにされることで新たな厄介が転がり込んでくる懸念もないではなかったが、しかしもうすぐ冬である。このままひとまずコースレコード更新云々の話は一段落するだろうと中里はたかをくくっていた。
その芽生え始めた安息への期待が壊されたのは、たった一日後のことだった。
いまだ妙義山に集う走り屋の高橋啓介来訪から発したウワサ魂が冷めやらぬ中、中里が古参のメンバーと無常の世について語らっていると、昨日も聞いたような独特のエンジン音が耳を打った。途端、山全体の時間の進みが遅くなったようだった。あらゆる人間の意識がその音へ向いたようだった。誰もがその音を発している車を待ち構え出したようだった。
やがて闇を切り裂くように進み出てきたのは、白いRX−7FC3Sだった。
「今度はアニキか……」
皆が見ているようにFCに目をやりながら、中里は呟いた。FDの高橋啓介がお引取りくださった翌日、その兄である高橋涼介が乗っていると思わしきFCが現れる。ここまでくると、高橋兄弟にまで関わられてうんざりするよりも、そこまでされる俺ってすげえんじゃねえか、と自信に変換しなければ中里もやっていられなかった。だが、完全に自惚れるには己を把握できていない不安が底に溜まりすぎていたので、多少ながらもうんざりはした。
FCからこの妙義山に降り立った男は案の定、高橋涼介だった。
遠めからもそのスタイルの良さが分かる。黒いズボンは足の長さを強調し、白いセーターと赤いシャツは清潔感と熱い心を表しているようだった。高橋涼介は集まっている走り屋の大方から向けられている視線も物ともせず、颯爽と中里に向かってきた。近づくにつれはっきり見えてくる容貌は、まったく文句のつけようがなかった。弟である高橋啓介と同様に麗しく、弟よりも大人びている。兄弟揃って格好良すぎるとしか貶しようがない。そんな煌びやかな雰囲気に呑まれたくもないので、中里は先んじて挨拶をした。
「よお、高橋涼介。久しぶりだな」
「――ああ。昨日は、啓介が世話になったそうだな」
「あいつの世話なんてしてないぜ、俺は」
「そう言ってもらえるとありがたい」
「んな大げさなことじゃあ……」
よく見れば、高橋涼介の着ているシャツはサテンのようだった。白いセーターの下に光沢のあるワインレッドのサテンシャツ。何となく目がいってしまう。
「コースレコードを十秒更新、か。やるじゃないか、中里」
「……まあな」
と言いつつ中里の目はシャツに釘付けだった。随分光っている。周囲が白い分浮き立って見える。
「しかし、十三日前からは記録を伸ばしていない」
「調子が乗らねえもんでなあ……」
「その前は、二日続けてベストタイムを更新している。一日で六秒。二日合わせて八秒。三日目には十秒だ。だが、それから十三日間音沙汰なし」
そこで中里は、テラテラしている赤いシャツから高橋涼介の顔に目をやった。作り物のように動きのない、冷ややかな顔だった。中里は目に険を潜ませた。
「何が言いてえ、高橋涼介」
「マグレだと言ってほしいか?」
「そう言いたけりゃ、言ってくれても構わねえぜ。俺の速さを知ってる奴は知ってるからな」
弟一人でも面倒だったというのに、アニキ殿にまで要らぬ勘繰りをされるのは御免だ。実力に裏打ちされていることを示すよう中里はわざと凄んだが、高橋涼介は怖気づいた風もなく、ただ思慮深げに目線を落とした。
「俺の速さか。以前のお前からは考えられねえ言葉だな、中里」
「何?」
「車を主体としていない」
心臓を串刺しにされたような衝撃を受けたのは、久しぶりだった。一瞬にして血が全身を駆け巡った。実際、このところの速さは32がどうのという問題ではない。明らかに自分の技術、というよりは能力の問題だ。相手の疑問を退けるためとはいえ、車を差し置いて自分の技術を誇ったことに、中里は羞恥を覚えた。高橋涼介の言う通りではないのか。妙な力に振り回されているうちに、偏狭なドライバーになってはいなかったか、以前の自分を失ってはいなかったか。頭に上った血はなかなか下りてこなかった。
「なあ中里」、と動揺して言い返しあぐねている中里に、視線を上げた高橋涼介が囁いてきた。
「俺はお前の進歩について、サギだのハッタリだのマグレだのと詰問する気はないよ。ただ、興味があるだけだ。お前に何があってそんなことになっているのか、お前がどうしてそれほどの速さを有するようになったのか。良かったらで構わない。俺に話してはくれないかな」
純粋な探究心がその端整な顔に染み出ていた。即座に拒絶するにはあまりに真摯な高橋涼介の様相を見ると、血液は通常の調子で全身に満遍なく流れ出し、冷静さは取り戻された。その上で、中里は手で顎を撫でつつ、高橋涼介を窺うように上目で見た。
「それ話しても、信じねえと思うぜ、お前は」
「お前の言うことなら信じるよ、俺は」
甘い響きを持った言葉は、だが冷ややかさも含んでいた。額面通りには受け取れなかった。高橋涼介は単に中里を信じると言っているのではない。その切れ長の目は、中里の内側の変化を探るような粘りを含んでいた。そして真摯だった。今、中里に起こっている事態について、それがどれほど尋常ではなくとも、語られることは信じると高橋涼介は言っているのだ。その気遣いの上に立つ冷静さをまとった欲望は、憤りを感じるには潔すぎた。この男ならば信じられそうだった。
今のところ、この定期的に男と性交しなければいても立ってもいられなくなる中里の現状の理解者は一人いる。食い扶持を稼ぐために現在この場には来ていない男、庄司慎吾だ。あの男がいなければ誰彼構わず手を出してしまったかもしれないという恐怖を中里が覚えるほどの理解者であり協力者であった。ありがたい男だった。だがあの男と一緒にいても、実際的な問題にしか対処はできない。競り合う仲とはいえ、所詮同じチームに所属する走り屋というだけであるから、おそらくこちらのことをまともに考えるほど暇ではないのだろう、思索も交わされないし、理屈はからっきし成り立たない。またがる機会を寄与してくれるだけ僥倖である状況だ。
だが高橋涼介ならば、この冷静な好奇と実直さを乱れず表す男ならば、探究心に基づく事柄についてはある程度の理屈は確立してくれるのではないかと、思える。医者の息子だとかいうウワサだから他の人間よりは人体に通じていそうだし、何といっても賢く、人の上に立つ器量を備える男だ、他人の秘密をべらべら吹聴することもあるまい。大体が同県内の別チームの走り屋――引退したとかも聞いたことがあるが、FCに乗っている高橋涼介は中里にとって走り屋でしかなかった――に過ぎないから、一連の混沌とした事態も深刻にならずに話せる気がする。
考えれば考えるほど、高橋涼介は相談相手として不足のない人物のようだった。むしろ、足り過ぎているのではないか。それならもう、いっそこの場で高橋涼介にすべてを話してしまおうかと中里は口を開いたが、何を言えばいいのかと戸惑った。夢を見て、同性に発情したら、速くなっていて、定期的に男にまたがらねばもうどうにもたまらなくなるという現状は、さすがに突拍子もない。中里は一旦口を閉じ、困って後頭部を掻いて、まあ、とまた口を開いた。
「お前なら、そうかもしれねえが……ちょっと、普通に話すにはな」
「誰もいないところの方がいいか」
囁きに妙な色が混じるように感じられるのは、この男が美麗すぎるからだろう。中里は調子を狂わされつつも、言葉は間を置かずに返した。
「そうだな。他の誰にも聞かれねえようなところの方が、都合は良い」
「なら、うちに来ればいい。俺の部屋だ」
すんなりと高橋涼介は言った。中里はそれをすんなりとは理解できなかった。
「は?」
「外は空間的に広すぎるし余計な音が多い。かといって車の中じゃ峠の事情を頭から外すのは難しいだろうし、お前のテリトリーに俺が入ってもお前は一層警戒するだろうしな。それ以外で他の誰にも話を聞かれずに腰を落ち着けられる場所だというなら、俺の部屋がいいんじゃないかと思う。今日は家族もいないし、啓介の帰りも遅い。出くわすこともないだろう。どうだ」
中里が疑問を言葉にする前に、高橋涼介はあらゆる事物を把握しているかのごとき歪みのない顔をして言った。中里が疑問を言葉にする機会はなくなった。自宅の方が安心できるし話もしやすいのは言うまでもないが、高橋涼介を招いた自宅が常の自宅であるかを考えると怪しかった。となると最初から非日常的である方が普段との違いを比較することが少なく済むのは明らかだ。唯一危惧されるのはこちらへの疑いを強く残していると思わしき高橋啓介との邂逅だが、それも起こり得ないようである。高橋涼介の説明には一つも欠けるものがなかった。その顔すら一つも欠けるものがない。つくづく不足のない男だった。中里は肯定する他なかった。
「まあ、そうだな」
「なら今から大丈夫か?」
「俺は大丈夫だけどよ」
お前は、と尋ねる前に、「俺も大丈夫だ」、と高橋涼介は愉しげに笑った。
「お招きするよ。じっくり話をしようじゃないか」
その件についてじっくり話したくもなかったのだが、ああ、と中里は言っていた。高橋涼介は厳しさなどまったく発していないのに、否定されることを認めぬ雰囲気を漂わせていた。先んじたところで、高橋涼介に真剣にかかられては結局呑まれる運命らしかった。
広く、殺風景な部屋だった。書棚に机に椅子にベッドにクローゼット、パソコンとその周辺機器や音響機器は部屋の半分を埋め尽くすだけの容積があるが、テレビもラジオもない。白い壁にクリーム色のカーテン、カーペットは灰色。色彩は病院や牢獄を想起させた。瞑想するには良さそうだった。人に聞かれては困る話をするにもだ。
窓際にあるそれだけ部屋に馴染んでいなような籐椅子をすすめられて、そこに座り、覚えている限りの事の次第を時系列に沿って中里は話した。高橋涼介は質問はしてこずに、中里が言葉に詰まった時だけうまく相槌を打って話を整列させた。適切な言葉と適切な態度があれば、数は少なくとも容易く人の口を開かせられることを中里は実感せずにはいられなかった。それほど高橋涼介は聞き上手な男を演じていた。演技だと分かるほど完璧だったが、演技だと分かったところで口を動かすことをやめる気にはならないほど親しみのある態度だった。今日高橋涼介が妙義山に来たところまで話し終えてしまうと、他に話すことはなかったかと未練を感じたほどだ。
十秒ほど置いてから、ふんぞり返っても軋みそうにない回転椅子に座ってる高橋涼介が、なるほど、と頷き、椅子から身を乗り出すと、両膝の間で手を組みながら、つまり、と言った。
「お前は二週間ほど前におかしな夢を見てからというもの、およそ三日に一度の夜、午後七時から九時にかけて同性とセックスしたくなるようになった。その衝動は抑えられない。セックスした相手は体力を失う。代わりにお前は体力を取り戻す。そしてそうした変化が起こってから、今までよりも感覚が鋭敏になり物理的に考えれば辻褄が合わないほどにタイムも伸びた。だが相関関係は不明。そういうことでいいか」
淀みのないその話の、最初の方を既に忘れかけていたが、多分な、と中里は言っておいた。この男が間違うわけもないと思うし、もう一度一気に言われてもすべて覚えて正否を確かめられるかは怪しい。
得心した風に軽く頷いた高橋涼介は、なあ、と覗き込むように見てきた。
「そのおかしな夢の全体像は思い出せるか」
「いや……何となく気持ち悪かったような気はするが、どういったもんかってのは、具体的には思い出せねえ」
時間の経過とともに、記憶も感覚も薄れつつある。今では思い浮かぶのは印象くらいなものだ。高橋涼介は再び軽く頷き、椅子に体を預けた。浮いた沈黙が気になって中里は尋ねた。
「やっぱり、夢のせいだと思うか?」
「お前の話を聞く限りじゃ関係はあるかもしれない。しかしお前に起こっている変化が、夢などという通常の意識によるものとも思いがたいな」
「どういうことだ」
更に聞くと、高橋はまた椅子から身を乗り出し、真剣な面持ちで言った。
「今から俺は一つの推論を言う。けど俺がお前から聞いた話が根拠となっているから、科学的な説明はできないし、信用性は一切ない。そんなものを推論と表現するのも道理に沿わないが、まあ事情が事情だ。それを了解して聞いてくれ」
科学的な説明が欲しいわけではないし、高橋涼介の意見という時点でその個人についての信用性はある。ああ、と中里が力強く頷くと、高橋涼介もしっかり頷き、言った。
「一つ、考えられるのは、お前が男とセックスしたくなるのは、人間の精液がお前の体の栄養分となっているため、という説だ」
「……は?」
中里は首を横に倒していたが、それで頭の回転が活発になるというわけでもなかった。セックス、精液、栄養。言葉は頭を素通りした。中里は更に首を横に倒しつつ、言った。
「……な、何だって?」
「うん」
と高橋は一つ間を取ってから、俯きがちに言った。
「お前の話によれば、お前が男と性的交渉を持ちたくなる時には他人から不健康そうに見られ、我慢をすると意識を失うということだが、それがエネルギー不足の状態にあるためだとして、例えばそこで誰かにフェラチオをしてやって射出された精液を経口摂取することにより体力が回復し、体調も戻るんだとすれば、その行為によって外部からエネルギー産生の材料を得るんじゃないかってことだ。その中で材料になりそうなものといえば精液くらいだろ。消去法だよ。まあ他に可能性がないとは言い切れないし、仮にそうだとしてもその反応の速度はまったく理解ができないが、お前の状態からするとそんなことを考えても仕様がないだろうしな」
中里は横に倒した首をゆっくりと真っ直ぐに戻した。頭の回転速度は少し上がって、その推論とやらの流れも、何となく理解できるようになった。精液で腹を満たさねばならないから、咥える必要が出てくる。しかしそれなら咥えるだけで良さそうなものだった。中里は思いついた疑問を口にした。
「じゃあよ、何で俺は……野郎にまたがるまでしなけりゃなんねえんだ?」
「そっちの方がエネルギー変換が効率的に行えるから、とかいい加減に理由はつけられるが、正確なところはまったく不明だよ。そもそもお前が今、普通の人間と同じ組織を持っているかどうかも分からないからな。この説を言うにしても、まず精液なんてタンパク質と体液が主な成分で、一回の射精で百ミリも出るもんでもないんだし、通常の人間でエネルギー産生の効率を考えたら射精一回分の精液を飲むよりも角砂糖を一個食う方がはるかに良いわけだ。これは量というよりはタンパク質と糖質の代謝経路の違いが……」
言葉の洪水に呑まれ、中里は遠い目をし始めていた。それに気付いた高橋が、咳払いをしてから、両手を広げた。
「まあだから、夢などという通常の意識によった変化だとするには、お前に起きている現象は、一般的な人体の知識が通用しない領域に入っていると、俺には感じられるということだよ。したがってその『野郎にまたがる』行為についても、理屈は知れないがそっちの方が今のお前にとってはベターであるためじゃないか、としか言いようがないな」
「………………そうか」
腕を組み、中里は頷いた。何となく、話は分かった。人体についてなどこちとら高校生物の知識しかなく、それも記憶の墓場に埋まっているため代謝経路が云々と言われてもお手上げだが、ともかく『他人の精液をいっぱい食べたいのでまたがりたい』が高橋涼介の整理した一つの説だということは、何となく理解した。表面上でも理屈が完成されれば納得できるし、一応の安心は得られた。
しかし、人間の精液が栄養源という理屈は、言葉として認識すると、恐ろしさと虚しさを感じさせる。共食いのようだ。
「それって、その、人間のじゃなきゃあダメなのか?」
動物にまたがりたくはないが、何か代替品があるならと考えて中里は尋ねた。高橋涼介は静かな目で、中里を見た。
「それは俺が聞きたいところだな。お前のそういった欲求は人間の男性限定なのか? 女性、子供、動物、植物、自然、有形無形問わずその他の何かに対して欲求は生じないのか?」
突然グローバルな話になった、ように中里は感じて、しばし思考停止した。今までむらむらきた時間帯は走り屋として峠におり、そこは男以外に存在しなかったから、男にしかむらむらこないと思い込んでいたが、実際そういう時に男以外しか存在しなかった場合にどうなるかということは、まったく考えたことがなく、開けた世界の中に中里は放り出された。虚空をいくら睨んでみたところで、答えは浮かんでこなかった。
「中里、分かった。もういい。戻ってこい」
高橋の優しさと諦めとが半々に混じった声が、中里の思考をただ広い意識の荒野から引きずり出した。中里は虚空から高橋涼介へと目を向けた。相変わらず静謐で、現実感に欠ける美麗さだ。だがそれが現実であることは思い出せる。
「……悪い、考えたこともなかったからよ、考えようとしたんだが、どうも頭がおっつかなくて……」
「構わないさ、肉体が思考を縛ることもある、選択肢はそもそも存在しないのかもしれない。いずれにせよ、今のところ反応したのは人間の男性のみなんだろう?」
「まあ、そうだな」
「ならそれが前提だ。一つの考え、まあ便宜的に精液栄養説とでも言っておくか?」
嫌な響きのある説だった。言わなくていい、と思ったが、自分の記憶と感覚のみが情報源の主観著しい話から、高橋涼介は正否はともかくとして一つの理屈を組み立ててくれた。文句を言うのも勝手が過ぎるだろう。中里はひとまず頷き、その説を頭の中で辿り直した。
不調=栄養不足=精液不足→男にまたがる→精液補給=栄養補給=復調。
つまり、この説では現状での三日に一度に起こる不調は栄養不足=精液不足が原因とされる。
「……普通に飯食ってるだけじゃ、賄えてねえってことか……?」
「基礎代謝量なりが増えているとしたらそうかもな。今のお前の活動量だと、三日でエネルギーが不足しても不思議じゃあない」
「んな、派手なことやってるつもりもねえけどよ」
「やってるんだよ」
高橋は即座に断言した。中里は面食らい、声をひっくり返した。
「あ?」
「今までと同じ力でしかないのなら、どうして突然タイムが物理法則を無視したかのように伸び通しになる。どうして至近距離から予告もなく投げられた煙草の箱を潰さず取ることができると思う?」
上半身を椅子の背もたれに預け、足を組んだ高橋涼介は、今度は悠々と言った。高橋啓介の話は高橋涼介に通じていたらしい。当然だろう、どう見ても双方ブラコンだ、それよりも、中里の頭をまず占めたのは煙草だった。昨日、去り際、高橋啓介が不意打ちで投げて寄越した煙草の箱。それを取ったという意識はなかった。だが、取っていた。コースレコードを大幅に上回った運転と同じだ。タイムアタックだから全力は尽くしたが、そこまで速く走ったという意識はなかった。だが、速くなっていた。感覚は鋭敏で、肉体は意思よりもその感覚を根拠として動き、以前よりも優れた能力を見せつける。その奇跡のような能力向上はつまり、精液栄養説によれば、他の男の一物を咥えたりそれにまたがったりすることに裏付けられているということだ。
「……そんなことになっちまったから、俺はこんなことになってるってことか……」
中里は考えた末、理解した。派手なことを、生きているだけでしちまっているのだ。実に厄介だ。うな垂れるしかない。
「……まあ、便宜的に説とは言ったが、あくまで俺が聞いたお前の話にしか基づかない、所詮仮定の上に仮定を積み重ねただけの空想話だということは覚えておいてくれよ。何が正しいとは断言できない。科学的見地からすれば不毛な議論だ。俺はそういうファンタジーも嫌いじゃないけどな」
そう言う高橋を見てみれば変わらず端整で、中里は少し気が楽になった。精液栄養説はおそらく数多ある推測の一つに過ぎないだろうし、三日に一度野郎にまたがらねばやっていけない現状は何も変わらない。だが、問題に理屈がつけば、対策の理屈もつけられる。もたらされる不調に場当たり的に対応せねばならない状況よりは、先に進む気力は湧く。何より高橋涼介の、俯いていて物憂げでもまったく崩れぬ容貌を見ていると、この世が瓦解することなど、この世に解決しない物事などあり得ないと思えた。
中里の視線に気付いたように顔をあげた高橋は、やはり美形だった。
「そういえばお前、今は俺とセックスしたくならないのか」
美形がそんなことを言うと、妙な色が混じるので、あまり試したくはなかったが、ここまで相談に付き合ってもらっているのだから一応やってみた方がいいかなというくらいの気持ちで、中里は高橋に視線を据え置いた。じっと見た。じっくりと見た。顔も体もしっかり眺めた。しかし襲いかかりたくはならなかった。中里は素直に答えた。
「ならねえな」
「少しも?」
「これっぽっちも」
「ふうん。大脳辺縁系に……けど連携は取れているんだから……」
高橋涼介はブツブツとよく分からないことを呟き出した。ホルモンだの脳だのという単語は分かるが、早口すぎて何を言っているのかはまったく理解できない。そもそも高橋涼介の考え自体を理解するのは無理だと感じる。中里はその呟きは放置しておくことにした。
それよりこれからどうするかだ。一つの説は固まった。生きているだけで栄養は不足し、いずれ精液を摂取せねばならない説だ。この精液の代替品があれば男に失礼して乗っかる必要もなくなるかもしれない。いや、代替品とは言わず誰かしらの精液を分けてもらって毎日摂取するというのはどうだろう。どうもこうもない。他人の精液を端から集めて冷蔵庫に入れておいて毎日の食卓に並べる光景を思うと、さすがに男にまたがらなければならない光景を思うよりも頭痛がする。これはのっぴきならなくなった時の最終手段だ。では代替品はどうか。動物実験もまだためらわれる。確度を考えると片端からタンパク質を食べてみるわけにもいかない。精液、すなわち燃料をどうするかについては後回しにしておこう。ではどうする。不調のサイクルでも見極めてみるか。一日中自宅の布団の中で過ごしても三日間経れば欲求が発生するのかどうか。見極めても事態が解決するわけでもないが、部屋に引きこもって動かぬことで少しでも体調不良の間隔を空けられれば、付き合ってくれる慎吾の負担も軽くなるかもしれない。
幸い無職だ、時間だけはある、それくらいから試してみて、徐々に具体的な実験に突入していくのも良いかもしれない、と、そのように一人考えていた中里の耳は、不意に高橋涼介の満足げな呟きを拾った。
「まあ、解剖しねえと分からねえか」
「かッ……カイボウ!?」
驚いた中里は、思わず腰を浮かせていた。解剖。生きたまま手術台に固定された自分の肉体が手術衣を着てメスを持った高橋涼介の手で切り開かれるイメージが、一瞬頭を過ぎった。
「……まさかと思うが中里、その驚きようは、俺がお前を殺して解剖するなんて考えたからじゃねえだろうな」
失望感たっぷりの高橋涼介の声に、中里は我に返り、椅子に座り直した。
「いやいやいや、そんなことは……少しだけ」
「一体お前は俺を何だと思ってくれているんだ……」
椅子に体重を預けた高橋涼介は、疲れたように額に手をやっていた。確かに一瞬とはいえ殺人犯として想像してしまったのは失礼だろう。中里は頭を下げた。
「悪かった。その、ついウッカリ」
「あのな、解剖にも種類があるってことくらいは分かるだろう? 何も死んだ人間のその死因を調べるだけじゃなく……」
と、そこで言葉を切った高橋は、少しの間、目を遠くにやってから、訝しげに中里を見た。
「お前、自分の精液じゃあ賄えないのか?」
「は?」
「いや、それができていれば、最初から他人には依存せずに済ませているか。ったく、いけないな。俺もさすがに考えがとっちらかってきた」
頭を振って、高橋は疲れたように目を瞑った。解剖から話が突然元に戻ったため、中里は頭を切り替えるのに苦労したが、切り替えた途端に疑問を覚えた。
「高橋」
「何だ」
目は閉じたまま、声が返される。中里は束の間迷ったが、疑念は残りそうだったので、言ってしまうことにした。
「今、気付いたんだけどよ」
「何を」
「出した記憶がねえ」
高橋が目を開いた。中里は高橋を見ていた。しばらく見合っていた。それから一旦高橋が視線を外して、戻してきてから、言った。
「精液をか?」
「……ああ」
「射精をした記憶がないと?」
「……ああ」
そう改まって言われると何だか気恥ずかしくなってくる。俯きつつも中里が肯定すると、更に高橋は言葉を重ねてきた。
「お前はそうなってから男とセックスした時、一度も射精してないということか?」
「………………多分な」
「勃起はしたのか」
「クソ、もういいじゃねえかそんなこと」
気恥ずかしさと、私的な性生活をよりにもよって走り屋としての関係性しか持たない高橋涼介に説明せねばならない事態への憤りが今更溜まってきて、中里はぞんざいに言ったが、高橋は辛抱強くまた尋ねてきた。
「じゃあ、自慰はどうしてるんだ」
「ジイ?」
「マスターベーションだよ。オナニーか。したことはあるだろ?」
「そりゃあるけど……いや、そんなこと」
「そうなってからも?」
そうして問われ続けることへの苛立ちよりも、急に浮かび上がってきた別の疑念が勝った。自慰くらいはしたことがあるし、正直なところよくしている。いや、していた。最近は異常な状況に悩まされてすっかり頭から抜けていたが、考えてみれば欲求を抑えられずに手淫に走った記憶はない。中里は高橋を一瞥して、首を振った。
「いや」
「していないと言い切れるか」
「やった記憶はねえよ、したいと思った記憶も……ねえな」
「そうなってからオナニーはしていない。そしてセックスにおいては射精感がなかったということか?」
「……だと、思うぜ」
繰り返して言われるうちに疑念に消された羞恥心と理不尽さへの怒りが戻ってきて、声は低く小さくなったが、高橋は聞き取ったようで、質問を続けてくる。
「それで、勃起はしてたのか?」
「……分かんねえよ」
「分からない?」
「分かんねえって、使ってねえし」
野郎に失礼する際に使うのは口かケツである。意識が及ぶのは口かケツと、相手のイチモツである。自分のイチモツの状態は記憶にも残さない。大体がイタしてしまっている時は理性がぶっ飛んでいて、正しい認識など消え失せている。自分が勃起をしていたかしていなかったかなど、認識も記憶もございませんである。それを問われても、困る。
「それじゃ、勃起障害なのか射精障害なのか分からないな」
「分からなくてもいいじゃねえか、別に」
いい加減うんざりして、中里は投げやりに言った。信用性は知れないが一つの説は理解できて、これからどうするかも決めた。なぜ今まで自慰をせずにこられたのか謎は残る。しかし不便はない。これ以上高橋涼介に踏み入られることを自尊心は拒否したがっており、思考に疲れた頭は議論を放棄したがっており、高橋涼介の考えを慮る余裕も持たせなかった。しかしそれとは別に、中里には自分の選択が相手に対して与えた影響を察知する力は残っていた。
「何だと?」
高橋涼介の声は常時低い。低く張りがあり、べらぼうな安定を感じさせる。それに加えて、体毛を逆立たせるほどの惨さが含まれたそれが耳に染み込んできた時、中里は自分のたった一時の投げやりの対応が、高橋涼介の機嫌を極端に損ねたことを悟った。気付いてしまった。気付いてしまった以上、無視も受け流しもできなくなった。
「……いや、その」
「これはお前のことだ、中里」、その口調には失望が絡んでいた。「俺の問題じゃない。はっきり言って俺には確実なことなど何も分からない、なぜならそれはお前のことだからだ。そのお前がお前を把握しようともしないでどうするんだ。そっちがその気なら俺はある程度相談には乗るし、俺にしか基づかない理論で話をまとめて欲しけりゃまとめてやる。お前の状態には興味があるからな。けどだからって俺にはお前をどうにもできない。お前をどうにかできるのはお前だけなんだぜ。それを無視されちゃあ、俺だってやってられねえよ」
言って吐かれた高橋涼介のため息の投げやりさのために、中里は今日二度目の、心臓を串刺しにされたような衝撃を受けた。皮膚が痺れるほどの血液の奔流が開始した。ここまで正論を明言されては、ぐうの音も出ない。仰る通りだ。いくら他人にまたがって調子を取り戻そうが、いくら他人に理屈を作ってもらおうが、これは結局自分一人でどうにかしなければならないことだ。その自分が自分を放り出しては、問題を解決するどころではない。痛いところをつかれてしまった。やってられねえ、その通りである。混乱に向き合わず半端な気持ちでいた自分を、とことん殴ってやりたい。
一日に二度も頭に血が上った中里はいよいよ捨て鉢な気分になっており、自虐傾向が思考に介入し、それがゆえに回転椅子に足を組んで深く腰掛け目を閉じ微動だにしない高橋涼介に対し、試せばいいのか、と、尋ねていた。高橋はうさんくさそうに目を開いた。
「何を」
「勃つのかどうか」
端的に中里は言った。自分のことを把握するには、まず勃起するのかどうかを把握するべきだろう、という考えだった。直近の過去が拡大されるほど中里の思考は飽和しており、当然自分の発言がどのような事態を招くかという推測は不可能であった。
「試してみるか?」
そこで高橋涼介の声に乗った柔らかな色には気付かずに、中里は一も二もなくああと頷いた。
トップへ 1 2 3 4 5 6