ゆめとうつつと 7
単位は取れれば何でもいい、と高橋啓介は考える。同時に、取れなければ何をやってもダメなのだ。出席日数はその場にいるだけでも満たせるから良いとして、問題はレポートや試験だった。こればかりはある程度の備え、すなわち勉強が必要だ。学費は親に出してもらえるだろうが、留年はしたくない。試験など何度も受けるものではない。机にかじり付いての予想暗記予想暗記の繰り返しは、ひたすら、気が滅入る。
レポートも何度も書き直すものではない。手を入れれば入れるほど主題が見失われ、何もかもどうでもよく思えてくる。だが、幸いなことに啓介には美形で聡明な兄がいた。二つ年上の兄は頭脳明晰で、専門分野がまったく違うというのにそこらのケチな教授よりもよほど教えが分かりやすい。そんな兄に構成を終えたレポートを添削してもらえば、たった一回手直しするだけで赤点の回避が可能であった。金も時間もかからない進級への良策である。
ファミレスで大学の仲間とタチの悪い教授が出したタチの悪い課題に夜遅くまで取り組んで、何とかかんとかレポートの格好だけつけ、これで兄に見てもらえるし赤点回避だと晴々とした気分で車を転がし帰宅した啓介は、自宅の客用駐車場に見慣れぬ車を見かけ、途端に愉快さを失った。
群馬ナンバー、黒いR32GT−R。迷いもなく、中里だ、と思った。あいつが来てる。
昨夜啓介は妙義ナイトキッズというバカが多くいる走り屋チームのリーダー、中里毅と会った。啓介が愛車のFDを度々ぶっ飛ばしている赤城山までそのチームから流れてきた、常識外れのウワサを改めようと妙義山に乗り込んだのだ。そしてとりあえずウワサの真偽は確かめた――ナイトキッズで戦争は起こっておらず、中里はコースレコードを大幅に――二週間で十秒、正確に言えば三日で十秒――更新していた。
そこまでは明快だった。問題はその後だ。中里は、走りに真正直なバカのはずだった。それがよりにもよって走りで手を抜いて人をコケにしやがって、その理由にしても宇宙人がどうのこうのとアホなことを抜かして煙に巻こうとしやがって、煙草の箱を投げつけてやったら潰さず取ってしまいやがった。どう見ても、変だった。しかしその32のドライバーは顔も形も間抜けさも変な律義さも、あくまで中里で、どう見ても中里でしかなかったから、啓介は、気味が悪くなった。中里はそのままなのに、別人のようで、やはりそのままで、やはり別人のようだった。理解不能だった。そうして結局新たなモヤモヤを抱えて赤城に戻った啓介は、兄に一部始終を話し終えると、その件については深く考えないようにした。自分のモヤモヤを言葉にしてしまうと幾分か気も晴れたし、何を考えたところで、何も解決などしない気がした。
一方話を聞いた兄は何か考えていた風だったから、今日、中里を自宅に呼び出したのだろう。綿密に様子見をして、決断してしまえば後は早い人だ、今頃中里を改めているに違いない。啓介としても気味が悪い中里の正体が判明すれば、言うことはなかった。スッキリする。ただ、兄が中里と会うことは、愉快ではない。GT−Rはいけ好かないし、そのドライバーもいけ好かない。FDを見くびる野郎は尚更だ。一度カッチリ相手のホームで負かしてやったとは言え、気に食わないものは気に食わないのである。自分の中里に対する印象を、兄は理解しているはずだった。その兄が、課題攻略で遅くなると連絡を入れといたにも関わらず、自分の帰宅を考慮せず、中里を家に上げているということが、余計に愉快ではなかった。さっさと帰しといてくれよ、ホント。
クサクサしながら啓介は駐車場にFDを停め、鞄を手に取り降車して、チャリチャリ回した鍵で家のドアを開錠し、靴を脱いで廊下に上がり、そのまま階段を上がり、二階に到着。鞄の中からレポートもどきを出しつつ、兄の部屋のドアの前に立つ。廊下に光が漏れていて、ドア越しに、人の気配が感じられる。兄と中里がいるのだろうと予想はできたが、クサクサしていたので、ノックをする気にもならなかった。
「アニキ、レポート見て――」
侵入目的を口にしながらドアを開け、そのままの体勢で、啓介は動きを止めた。声も出せなくなった。左手に兄がいる。兄がいるのはいつも通りだ。机の前で椅子に座り、ヘッドホンをしながら、キーボードを黙々と叩いている。何かの文字を打ち込んでいる。よくある光景だ。
問題は、その右側にある。窓際に置かれた籐椅子。兄の二十歳の誕生日に祖母が贈っただかいう古びた籐椅子だ。そこに兄が座っているのを啓介は見たことがない。誰が座っているのも見たことがない。啓介自身も座ったことがない。深い焦げ茶の木と薄紫の布地の色合いが気に入らなかった。その籐椅子に、男が座っている。黒い髪で、黒いトレーナーを着て、下半身裸で、足を開いて、離れていても顔は苦しそうに見える男。その男を啓介は知っている。客用の駐車場に置いてあった32の、ドライバーだ。中里だ。
妙義ナイトキッズのGT−R乗り、中里毅。それが兄の部屋の籐椅子に座って下半身裸で足を開いて、苦しそうにしている。
意味が分からない。
兄がその時こちらを向いた。啓介はそこで一旦ドアを閉めた。
「……んん?」
ドアを閉めて、たった今見た光景を思い出してみる。だが、やはり意味は分からなかった。いや、しかしあれは現実ではなかったのかもしれない。そうだ、いくら何でも中里が兄の部屋で下半身を剥き出しにしているわけがない。大体何の話でそうなるんだ。ロンリテキに正しくない。きっとあれは見間違いだ、中里は服を着ていたんだ。啓介はそう決めて、もう一度ドアを開いた。
だが、中里は相変わらず下半身丸出しで籐椅子の上に座っていた。こちらのことなど気にする余裕もないような、苦しそうな様相だった。何がそんなに苦しいのか――勃ってるからか。何だかめまいがしてきそうで、啓介は兄を見た。兄もいる。これはロンリテキに正しいはずだ。兄はヘッドホンを外して啓介を見たところだった。驚きがその整った顔に広がった。
「啓介?」
「……それ、中里か?」
啓介は兄の部屋に入り中からドアを閉め、一応尋ねた。兄は椅子から立ち上がり、そうだ、と頷き、慌てたように片手を上げた。
「待て啓介、こっちに来るな」
「あ?」
「この件について何かあるなら、後でお前の部屋で話そう。いや、レポートか? 何にしてもとにかくお前はここにはいない方がいい、いるべきじゃない」
早口に兄が言って、啓介を部屋から追い出そうとした。強制されると反感を抱くのが啓介だった。兄の動きを制し、その場に留まり、足をカーペットに埋め込んだ。
「いや、意味分かんねえよ。何アニキ、中里とどうなってんの?」
兄は佇み、啓介の内面を外面を透かすようにじっと見て、やがて深く溜め息を吐いた。二十余年も兄弟をやっていれば、互いの性質は手に取るように理解ができる。何が通用して、何が通用しないかもだ。兄はそれを理解して、自分を部屋から追い出すことは諦めたようだった。
「別にどうにもなっていない」、兄は俯きながら言った。「けどこうなったのは俺の責任だ。俺にはこいつを放ることはできない。と言っても、他にどうしようもないんだが」
啓介は紙を片手に持ったまま、空いている片手で頭を掻いた。話がサッパリ分からない。ただ、中里も兄も、のっぴきならない状態ではあるのは何となく、分かる。中里は動きようがなさそうだし、兄は声がいつもよりほんの少しだが上擦っているし、口調もいつもよりほんの少し、不安定だ。顔色も良くはない。変な汗をかいているようだ。
「よく分かんねえけど、大丈夫かよ、アニキ」
「さあな」
「さあな、って」
「いっそ理性を焼却炉で燃やし尽くしたいと思えてくるぜ」
「なあ、何があったんだ?」
兄は黙った。俯いたまま、何かを探すように床を見ている。グレーのカーペットには当然何も書かれていない。
「何でも、ねえよ」
その兄の後ろから、声が飛んだ。苦しげにかすれた男の声。中里の声だ。兄はそれを聞いてすぐ動き、机の前の椅子に座り直した。中里を見ようともしなかった。ヘッドホンはしないから、話を聞く気はあるようだが、兄は机に肘をつき、合わせた両手の中に顔をうずめ、やはり黙っているだけだった。啓介はもう一度頭を掻いた。どうにもこうにも、サッパリだ。兄はまだ黙っているだろう。気配で分かる。喋りそうなのは、籐椅子の上の男だ。
その男の傍まで行き、啓介は、その体を見下ろした。黒いトレーナーの裾から陰毛と勃起したモノがはみ出ている。何とも人の心を暗くする光景だ。つい嘆息すると、中里がこちらを向いた。厳しく歪む太い眉、目、唇。怒りと恥辱、そして性的興奮がその面から窺えて、啓介は再び嘆息し、とりあえず、聞いてみた。
「何やってんだ、お前」
「……うるせえ」
「聞いてるだけじゃねえか、何やってんのか」
「こんな……こと……、クソ、もう……」
息も絶え絶え、答えてはいるが、答えにはなっていない。どうにも溜め息を吐かずにはいられなかった。兄の言った通り、確かに自分はここにいるべきではないのかもしれない。理解できそうな事柄が見当たらない。分かってねえのは俺だけか?
「お前、何も感じないのか?」
急に横から、耳に馴染みのある兄の声がして、啓介はドキリとした。兄を見る。兄はこちらを見ていない。パソコンのモニタを見ているらしい。何も感じない? 聞かれた意味がいまいち分からない。だが、これは、兄が知りたいことのはずだ。兄に聞き返せば、分かるだろう。
「何を」
「中里について」
兄はモニタに向かっているが、その声は啓介に向けられていた。兄はなぜ頑なにこちらを見ようとしないのだろうか。それとも、中里を見ようとしないのか。ともかく、話は中里についてらしかった。中里について、何も感じないのかだって?
「いや、こんなカッコでいられると、かなり微妙な気分になるぜ。っつーかまあ、ぶっちゃけ気持ちが悪い」
「気持ちが悪い?」、意外そうな兄の声だった。
「そりゃそうだろ」、啓介は思いのままを言った。「だって、中里だぜ。俺、金払っても中里の裸を見たいとは思わねえよ」
野郎が、しかも知り合いが半分露出させている姿を面白おかしく見られるほどのヤンチャさは、既に捨てた。今はもう、侘しさすら感じてしまう。お前は何をやってんだ、中里?
「俺だって……」
かすれきった声が後ろから聞こえ、振り向いた。中里は籐椅子に座ったままで、呼吸は忙しない。唾を飲み込む音がよく聞こえる。肘掛けに置かれた手に筋が浮いている。服を着られないほど、苦しいのだろうか。分からない。何が起こっているのか、やはりサッパリ分からない。
「中里」
また後ろから、今度は兄の声が聞こえ、啓介はまた振り向いた。兄はやはりこちらを見ない。見ないまま、しかしこちらに声を飛ばす。
「俺は今から啓介にお前のことを話す。すべてを話す。お前の意思はこの際無視するが、お前に対する俺の責任を放棄するつもりはない。なじりたければ後からいくらでもなじってくれ」
「……高橋、お前……」
「お前は何も言ってくれるな、頼むから」
中里は苦しげに呼吸をするだけになって、兄は一向に中里を見ようとはしない。啓介はひとまず兄の傍に立った。
「何があったんだ?」
そして、再び尋ねた。兄は啓介を見た。皮膚の色を、筋肉のつき方を確かめるように、静かに、しかし強い意気をもった目を、啓介に据えた。それから、口を開いた。
兄の教えはそこらの態度だけデカイ教授よりも、よほど分かりやすい。だが、その時の兄の説明は、啓介の理解力を大分超えたところで行われた。特にタチの悪い課題に取り組んだ後の頭は活動力が低下しており、おかげで兄が話を終えてから事態を全部呑み込むまで、三分はかかった。それでも呑み込めたのだから、やはり兄の説明能力は優れている。これを中里に話されていても、自分は取り合わなかっただろう。
これというのはつまり、こういうことだ。中里は今、野郎に突っ込まれて射精してもらいたい状態らしい。突っ込むとはモチロン、ナニをケツにである。
中里が三日に一度、その状態に陥るようになったのが二週間ほど前からで、それ以降中里には超人的な能力が備わった。コースレコードを三日で十秒更新できるほどの、だ。つまり、中里は実際、宇宙人によるのかどうかは知れないが、異次元的な力を持っていて、三日に一度の夜、野郎に突っ込んでもらわないとやってられない状態になっているというわけである。それについて、野郎の精液が中里にとって栄養源的なことになっているため、それが得られるようについつい襲ってしまうのではないか、と兄は推測している。中里に体を提供してやった奴が、軒並み体調不良でダウンしたらしいからだ。
で、今の話。今日兄は、中里とその件について話しているうちに、段々疲れてきて、場当たりで中里が普通の状態でおっ勃つのかイけるのか実験に突入してしまったという。「無計画過ぎた」、兄は深い後悔を声ににじませながら言った。「俺はもっと広い可能性について考えるべきだったんだ」。しかしやってしまったものはどうしようもない。ケツに指を入れてナニを活発にしてやっている実験途中、中里は突然、変化した。それは三日に一度に訪れるはずの状態で、今日ではなかったらしい。サイクルの乱れについて、兄は「呼ばれた性感が一定の領域を超えると、スイッチが入るようになってるのかもしれない」と考えた。
「だから俺が中里に挿入して射精してやれば、中里が勃起をしたまま身動きできずにそこに座っていることもなくなるだろう。おそらく中里に必要なのは精液だからだ。そして俺は今なら中里相手にも挿入できる――というよりは、そういう欲望をかき立てるものを、今の中里は持っている。俺は中里を見るだけで勃起するし、中里の声を聞くだけで興奮する。だが俺はできれば中里には挿入したくない。だからずっと我慢している。時間が経てば中里の状態もおさまることもあるかもしれない。ないかもしれない。今の段階で三十分は経っているが、いつまで続くのか、いつまで俺が我慢できるかは分からない。でも、俺にはどうしようもない。これは俺の責任だ。あらゆることに注意を置けなかった俺の。責任を果たすなら、俺は中里に挿入してやるべきなんだろう。射精してやるべきなんだろう。でもそれはしたくはない。俺の明日は早くて遅い、体力は保っておきたい。しかしそんなことは究極どうでもいいことだ。俺はただ、中里には、入れたくない。だからせめて、見放すことはしない。だから、こういうことになっている。啓介、俺がお前に言えるのはこれだけだよ」
兄が語り終えてから三分後、そのあらましについて納得はしがたいが理解をして、スッキリしてから、啓介はどうしようもなく不思議に思ったことを、まず口にした。
「じゃあ、今アニキは、すんげえ中里に入れたくてたまんねえってわけ?」
露骨に聞いた啓介に、露骨に兄は顔をしかめてみせた。
「有り体に言えばな」
「何か、信じらんねえな。俺には全然ピンとこないぜ」
「なぜかは分からねえが、多分お前には、通じないんだろう。こいつの魅惑が」
ミワク、という単語に、喉が不快感を示し、唾を飲み込むのに苦労した。今の中里を見て啓介が感じるのは性欲ではなく、その変態な体たらくに対する若干の怒りと、一度はバトルをした走り屋が野郎のナニを求めて股を開かずにはいられない事態に対する、寂しさだ。兄もそれは、感じているに違いない。兄こそが、この状況について、やり切れないはずだ。でなければさっさと突っ込んで、射精して、体力不足にはなるかもしれないが、清々していることだろう。おっ勃てたままイかずに我慢するなど、拷問である。
兄は中里に責任を感じているから、ミワクされても、突っ込まず、しかし逃げずに、耐えているのだ。
椅子に座っている兄の股間のふくらみは啓介も確認できるが、見ないことにした。武士の情けだ。違うかもしれない。だが、男同士、兄弟同士、見て見ぬフリをすべきこともある。特に兄は、中里にそそのかされてるようなものだ――いや、これも、違うかもしれない。見た限り、中里は積極的に兄を受け入れようともしていない。どちらかが積極的になっていれば、兄は三十分も我慢せず、啓介が帰宅する前に性交は済んでいたはずである。中里はさっさと帰り、自分は中里と鉢合わせず、兄は生々しい事柄を外した中里の状況を自分に説明できたはずなのである。つまりヤッちまう方がよほどイージーでシンプルでスマートな選択だったというのに、兄は我慢し続けている。中里も、動かない。どちらも、ヤりたくはないということだ。しかしおそらく、やらねば何も片付かない。
「大変だな、アニキも」
「自業自得だ」
返される兄の声の低いところに、平静への努力が聞こえた。まだ踏みとどまれているのだろう。しかし中里が元に戻らない限り、兄はミワクされ続ける。勃起し続ける。苦しみ続ける。これが兄の責任とやらで、兄も中里も、性交を望んでいないことは分かる。しかし、兄の苦しみを見過ごすことなど啓介にはできない。自分がやさぐれて場末のチンピラに成り下がった時でも、見捨てることなく辛抱強く愛情をつぎ込んでくれた、大切な兄だ。そんな兄にこれ以上、苦労はかけたくない。苦しんでほしくは、ない。
啓介は明日の予定を思い起こした。午前は何もなし、講義も午後遅くに一コマだけ。夕方の通学に不満を抱いていたが、今回に限っては都合が良い。よし、と啓介は決めた。様子見にかける時間に差はあるが、決断が早いのは、兄弟同じだ。
「じゃあ、俺がやるよ」
言うと、兄はおもむろに啓介を見上げ、啓介の表情が変化しないことを知ると、さっと眉根を寄せた。
「何?」
「そいつに入れりゃあいいんだろ?」、何でもないように啓介は言った。「まあ、頑張って違うこと考えれば、何とかなるんじゃねえかな。俺は明日、講義午後からだし、そんな問題もねえよ」
それで兄の心労が消えるなら、構わない。啓介は既に決めていて、迷いも持たなかった。
「できるのか?」
「保証はできねえけどよ。俺、ホモじゃねえから。イけねえかも」
「そうじゃねえよ」、兄は啓介を見たまま、鋭い声を発した。「そいつは中里だ。お前は本当に、それでいいのか?」
そう、そいつは中里だ。妙義ナイトキッズのいけ好かないGT−R乗り、中里毅。完全にむさ苦しい男。そんな男に突っ込まねばならない事態には寒気を感じる。だが、それで兄を苦しみから解放できるのなら、やはり迷いはない。
「まあ、俺はこいつに何思われたって、別にな」
啓介は中里とそのホームで直接バトルをして、カッチリ負かしてやっていた。リベンジへの執着を既に中里は見せている。だからこそ、昨夜は手を抜いて人をコケにするようなマネをしやがったのだと、今なら考えが及ぶ。異次元的な力が介入する走り合いを、中里は良しとはしなかったのだ。であれば、どんなことがあっても、自分は中里と走り屋として、いけ好かねえと思い合うだろう。啓介はそう感じる。そこに一回の性交が加わろうが、自分たちは所詮は地元の走り屋で、いけ好かねえ者同士なのだと、そう感じる。兄が中里と性交に及んだ方が、余計なものが入ってしまうに違いないとも。
兄はじっくりと啓介を眺めていた。啓介の迷いを見極めようとしているようだった。しかし啓介に迷いはない。兄の視線は一定で、啓介が兄を見る視線も一定だった。同じ部分でそれは交わり、意思は交換され、認められた。
「てめえら、何を、勝手な、ことを……」
中里の声が、兄弟間の無言のやり取りを遮った。そして兄は突然素早く立ち上がり、啓介の手からレポートの束を抜き取った。
「添削はしといてやる、後は頼む。俺はもうこれ以上、耐えられねえ」
早口に言った兄の顔を、啓介はよく見なかった。兄がそのままドアに向かって歩いて行ったからだ。限界を言う兄など、そうあることではなかった。啓介は己の決定に満悦しつつ、兄の背に声をかけた。
「二十分くらいで終わると思うぜ、多分」
兄は片手を上げて啓介の言葉への了解を示し、ドアを開いて、部屋を出て、ドアを閉めた。こうして啓介は、兄の部屋で、中里と二人きりになった。
ヤるだけだ、と思う。野郎の尻に入れるだけ。その相手が中里ということにはやはり寒気を覚えるが、意識をしなければいいのである。自慰と似たようなものだ。最高のズリネタでモノを即時に対応させ、手近にある穴に突っ込むだけ。単純作業。
「……俺は、お前となんて……」
中里が座る籐椅子の前の床にあぐらを掻き、目をつむり己の息子を励ます想像に励んでいた啓介は、中里の声に集中を乱されて、つい舌打ちをした。
「お前、少し黙ってろよ。勃たねえだろ」
「するなよ、この……」
「したって何も減らねえよ。俺もお前も」
減りも増えもしないだろう。根拠はない。ただ、確信がある。勝者と敗者、FDとGT−R、赤城と妙義、峠の走り屋。何も変わることはない。それは自分の確信で、中里の確信ではないから、無駄口も多めに見るべきなのかもしれないが、女性を思い描いて興奮しようとしている中、男の声を入れられては、興ざめである。
「何で、お前は……」
「黙れ」
乱暴に、啓介は言い切った。中里の息を呑む音が聞こえた。それから、唾を飲む音。荒い呼吸音。パソコンの運転音。啓介は記憶を辿る。何年か前に行った性交の数々、受けた性技の数々。生々しい感触、背骨を焼いた感覚。少しずつ、体が熱を帯び始める。着ていたパーカーを脱いで、長袖のシャツの袖もまくる。肌に汗がにじみ、下腹部が目覚め始める。だがまだ臨戦態勢には至らない。時間が経つごとに、中里のケツにぶち込むために、自分のナニに真剣に喝を入れていることが、馬鹿らしく思えてくる。しかしこれは何も中里のためにやっているのではない、兄のためだと思い直す。兄の代わりにイッてやるのだと考えよう。いや、兄も今頃は自慰の一つや二つしているのかもしれない。中里の尻に入れられずに終わった兄のペニス。考えると、侘しいにほどがある情景だった。心も萎える。
啓介は頭を振った。中里のことも兄のことも、今考えるべきではない。考えるべきは、女だ。豊満な胸、くびれた腰、暖かい口、柔らかい女性器。映像、音声、感触。頭の中がピンクに染まり、気分が盛り返していく。良い兆候だ。冷えかけた首筋が熱を取り戻す。血が巡り、下腹部にも行き渡る。そして勃起する。完璧だ。しばらく車にかかりきりで女体をやり過ごしてた分、手で応援してやらなくても、使い物になりそうだった。
一つ息を吐いて、目を開く。籐椅子に股間も露わな中里が座っている。目を閉じ、苦しげに顔をしかめている。相変わらず黒いトレーナーの裾から陰毛と勃起したモノがはみ出ている。やはり、心は萎える。だが、完全には落ち込まない。慣れてきたのかもしれない。良いかどうかは分からないが、その体を見たままでもやることはやれそうだから、悪くはないだろう。少なくとも、不便ではない。啓介は膝立ちになって、迷彩パンツの前を開き、血の行き渡っている自分のペニスを手にした。学校の試験と比べれば、準備は簡単で、実地も単純だ。何ということはない。少し、気分が軽くなった。こんなもの、さっさと済ませちまおう。声をかけてぐずぐずされても面倒なので、何も言わず、左腕で中里の右の太股を抱え、右手を添えたペニスをその、尻に入れた。あっさりと、収まった。
「……あッ」
中里の体が椅子の上、弓なりに反る。高い声、長い溜め息。跳ねる体を啓介は適当に制しながら、椅子を押さえつつ、腰の律動を始めた。中里の尻の中は、奇妙だった。尻のようで尻ではない。肉のようで肉ではない。感触的に一番比較しやすいのは女性器だったが、それでもまったく別物だった。突然水のように抵抗を失い、それが急に固まって、ねっとりとペニスを包む。意図的に適切に、人のモノから精液を搾り取ろうとしているような快感をもたらす内部だった。
「うッ、ん……はっ、あ、あ……」
動く度に、中里は極まった声を上げた。随分と気持ちが良さそうで、肌は赤らみ、時折開かれる目はあちらこちらに飛んでいる。結構なことだ、他人事のように思う。性交の快感は啓介も味わっているが、熱中はできない。相手が中里で、ここまで勝手に盛り上がってくれている様を目にすると、こっちがハマっちまってもどうよ、と冷めてくる。そもそも、したくてやっていることではない。
「いっ……嫌だ、高橋……、や……」
と、腕を掴まれる感触があって、啓介は意識を中里の顔に向けた。先ほどまであっちこっちにいっていた涙目が、啓介の顔に、真っ直ぐ置かれている。気は確かなようだ。ぜいぜい言いながら、嫌気を頬に表している。実に今更である。
「嫌ったって、仕方ねえだろ。やらねえと終わんねえんだから」
「だから、俺は、お前と、なんて……ッ」
「俺も、お前となんて御免だよ。できればな」
「……じゃあ、何、でッ」
会話に集中すると勃起がなおざりになりそうだったので、啓介は体を動かした。中里はあえぎ、言葉を失った。それでも何かを訴えるように、腕を掴んでくる。何かがずれた性交だった。中里の尻の具合は男にしては非常によろしいが、いかにもどうぞ射精してくださいと扱われるとどっちらけだし――強制されると反感を抱いてしまう――、中里の態度はよがり切ってたと思えば急に嫌がり出すという、あまりよろしくないもので、ハッキリ言って、愉快ではない。俺だって、アニキがあんなんじゃなけりゃ、お前とヤッてねえっての。
このままでは行為に没入できず、何十分かけても達せそうにない。そんなにも中里に入れているのは、まったくぞっとしないことである。
こいつもめんどくせえけど、俺もめんどくせえな。
一旦動きを止め、一つ溜め息を吐いて、啓介は考えを変えることにした。義務を念頭に置くから気が削がれる。これは学校の勉強ではない。単位を取るために四苦八苦をする必要はない。これは、そう、セックスなのだ。セックスは走りと同様、相手が誰であろうが何であろうが、根本的に、愉しんでやるべきだ。
「中里」
名を呼ぶと、中里は熱い息を吐きながら、まだ嫌そうに啓介を見る。走りと同じ、バトルを同じだ。競り合って、相手よりも前でゴールを迎えようとする。その過程に興奮があり、その結果に絶頂がある。啓介は中里に覆いかぶさるように、口付けた。舌を絡めて吸い上げながら腰を入れて、唇で歓びの声を感じる。中里の顔に驚きが浮き、快感がそれを押し流す。
「んんっ――」
「どうせ、これっきりだ」
「あッ、あ」
行き着く場所を失ってさまよい始めたその顔を見下ろすと、渋いコーナーをスムーズに抜けた時のような、確実な手応えと、小さな愉悦を感じ、啓介は自然に笑っていた。
「まあ、楽しもうぜ」
足を抱え直して椅子を壊すように思う存分突き入れれば、掴まれた前腕に生まれる痛みが絶頂の影を降らせ、絡み合う舌が情熱を強くする。
「あ、あ、あ」
高まる声は、案外快い響きで脳に届く。肌の熱が、肉の熱を呼ぶ。そう、これはセックスだ。中里と自分のセックス。他の誰のものでもない、他の何も関係がない、二人で愉しむ、これっきりのバトル。ペニスを食いちぎろうとする尻に反抗すれば、取り巻く混乱の波が充足をもたらし、気分を上向かせる。相手と鎬を削り、屈服させようとする、その過程が、痺れる興奮を呼んで、やがてゴールを近くに感じ、体は未練を覚えるが、走ることを止めはしない。中里の声を口の中で聞きながら、そして啓介は中里の尻に射精した。
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